くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

すみま戦隊・モノトーントワイライト覚書

お久しぶりの、ブログ。にして、初めての観劇感想記事。とも言えないメモ書き。最近他の人の感想記事読んでびっくりしてる。あんな風には書けない、私は。まあいーや。

 

 

観てきたのはこちら↓

滋賀大学滋賀県立大学「劇団ZERO&深夜特急」「めんつゆコーラ」卒業公演『モノトーントワイライト』『すみま戦隊スミマンジャー』

 

 

情報量なんか多くない?

 

 

滋賀の大学生の卒業公演です。4回生の代を「めんつゆコーラ」と言うらしい。二本立て上演。

 

 

私、あんまりこういうの観たことありません。「こういうの」と言うのは、学生演劇。ぶっちゃけ言おう。私、別に演劇観るのそんなに好きな人間じゃないんです。というと語弊があるんだけど、優先順位が低いというのかな。自分で新しい劇団を探したりしないし、チラシを観て面白そうだと思っても実際に観に行くことはほとんどないし。外れるのがいや、なのかもしれない。全く縁もゆかりもなく、好きな役者も知り合いも出ていない、面白くないかもしれない作品にお金も時間も割きたくない。でも観た方が良いなと思うから、知ってる人が出ているとか、誘われたとか、オススメされたとか。何かと理由づけして重い腰を軽くしようとしている、感じ。

 

 

だから、劇団四季とか2.5次元とかそういう大手の?やつ以外は、ものすごく楽しみに観に行く、ということがあんまりない。

 

 

まあそんなわけで、学生演劇に縁がないとそりゃ行かないわけです。情報がそもそも入ってこない。入れようとしてないから当然入らない。

 

 

縁あって、初めてお知り合いができたので、そんじゃ観に行ってみるかーという感じ。

 

 

 

結果、行って良かった。本当に。しみじみと。これ無料で良いんですか⁉︎ていう。

 

 

 

まず一本目、すみま戦隊スミマンジャー。

これはコント?なのかな?パンフレット見て、歌がしっかりあってびっくりした。誰の声??始まって、MVがあることにまたびっくり。すごい、しっかりMVだ。だがしかしロケ地はオール県大。紛うことなき県大。懐かしの我が母校。なんだかしみじみと感動してしまった。

 

あとこのコンセプトね。大好き。多分これはFINALだから今更な感想なんだろうけど、なんかこー、謝ればOK好きに生きようっていう感じと、しっかり教育要素が入ってる感じが絶妙にコント味、パロディ味があっていーよね。謝れば何とかなる。分かる。26年それで生きてる。共感しかないどうしよう。

 

 

お芝居に関しては、灰とパープルのやり取りがコント味強くて、見ててとっても安心感があったな。

 

 

 

で、二本目、本編。モノトーントワイライト。

もーーーね、私の個人的好みというか、趣味にめちゃくちゃ刺さった。いろはちゃんの趣味と風の噂で聞いたので、私はとても感性が合うのだと思う。知らんけど。

 

 

最初、書いてあるあらすじの意味が分からなくて、全然違う話になったのか?これはボケなのか?あらすじ載せる意味あった?みたいな気持ちだったんだけど、そのまんまの意味だった。

…ていう脚本を書こうと思っていた、やろうと思っていためんつゆコーラのお話だった。

 

 

私が観たのは1ステ目だったからか、どあたまのモノローグみたいなところはみんなちょっと緊張があったのか分からないけど、なんとなくこちらもドキドキソワソワ、大丈夫かなーって思いながら観てた感じで。

ノローグってほんと難しいのよ。いや偉そうに言うけど自分の話じゃなくてガチの役者さんの受け売りだし、最近の自分は全力で棚にあげます。

で、特に言い回しが小説っぽかったから余計に、下手すると本当に青臭くて、白々しい感じになっちゃうと思うの。つい最近それでめっちゃこけてる作品を見てたから、余計に、出だしで「大丈夫かなぁ、楽しめるかなー」ってちょい不安になったのは事実。

 

 

なんだけど、ストーリー的にはすごく等身大だし、ああみんな大変だっただろうな、色々あったんだろうなとか、自分たちも色々あったなとか、ここ数年の現実と重ね合わせて観てたから最初からすでに泣きそうで。

 

 

で、どこだったかな、最初の一連、みんなでのやり取りが終わって、とおるの長いモノローグあたりで、グッときたなと思う。そっから、みんなの悔しいとか、やるせないとか、やるしかない、でも100%ではどうせできない、もっとできたのに、みたいな葛藤とか。

微妙な気持ちの探り合いとか。

みんなやりたいと思ってるのに、誰も言い出せずにどんどん全体の士気が落ちていっちゃう感じとか。別に誰のせいでもない、でも勝手に「誰も返事しないってそういうこと」とか自己完結しちゃってみんなして閉じこもっていっちゃう雰囲気がすごくリアルで。2人、3人のシーンの微妙〜〜〜〜な空気感がとっても良かった。

先輩の感じもめちゃ好きだったな、あーいう人いるよねって感じで。ひな姉の空気読めなさ、私は個人的に大好きです。ああいう人、必要。絶対。

 

 

 

で、後半。の、出だしが私の知ってる2人だったから、「あ、いつもの2人!」て思った。ノリがいつも通りすぎてちょっと笑ってしまった。でもいろはちゃんにあんな優しいこと言ってるしんしんを私は見たことない。が、いろはちゃんが書いているのでそういう一面もあるのでしょうね、きっと。

 

 

いつも通りの劇団員、なんだろうけど、それを舞台上で見せるってたぶん難しいことで。だって台本あるとはいえ、素で舞台立つ方が緊張するじゃん?良いカッコしたいとか思う人もいるじゃん?それができるのが、彼ら彼女らの強さであり、お互いの、そして観客に対しての信頼感のような気がした。

 

 

でね。私、時々思うの。舞台上で見せる感情の方が、ある意味「生身の本物」なんじゃないかって。

だって日常で、感情100%出すことなんてそうない。遠慮したり、オブラートに包んだり、見なかったり、誤魔化したり。

最後にかけてそれが如実に出ていたというか。文字通り、舞台上で感情が100%で生きてた、というか。

でね、書きながら今思った。これは想像でしかないんだけど。

前半の劇の劇団員たちも、それぞれの個性を反映していると仮定するならば。彼らはきっと優しくて、気を遣って、自信がなくて、諦めかけていたけれど。

めんつゆコーラが同じ状況なら、きっといろはちゃんが「いややろーよ!」って言うのかなって思う。それを言う人が不在だったから、あの脚本は完成しなかったのかな、なんて。

 

 

自分の大学生時代、自分にとってのコロナ禍を重ねつつ、めんつゆコーラの青春と、大学生活最後の1ページを見せてもらって、一緒に体感したような気持ちになる、とっても柔らかくてキラキラした作品だったなと思います。アイドルって、自分の生き様と個性を商品にして、作品にするじゃない?そんな感じ。

 

 

 

「一人一人が輝く」。私の理想だなって思う。

 

 

 

 

 

 

好きってなんだ⁉︎⁉︎part.2

きっと、前と同じことを多分書いている。

結論は、結局のところ同じなのだと思う。

 

けれど、書きたいと思った時に書いておかないと、私はその時その瞬間の気持ちを忘れてしまうから。一瞬一瞬動いていく感情を、カメラのように映しとれたらどんなに良いだろうかと思うのだけれど、そう上手くはいかない。

 

ここ最近、なぜかほうぼうで恋愛話を聞くことが多い。これまで触れてこなかった分まで取り戻しているみたいに。色んな形の恋。愛。きっと、この間読んだ本が引き寄せているのだと思う。

 

 

好きに限らず、だけれど。

 

 

便宜上一つの言葉でくくってはいるけれど、その思いの色も形も、全然違う。共感できる部分、できない部分、色々ある。手触り、色。

 

 

恋と愛は、違うらしい。恋と友情も、違うらしい。でも、そのどれもが「好き」らしい。カレーが好き、テニスが好き、仕事が好き、歌が好き、赤色が好き、親が好き、友達が好き、恋人が好き。全部同じ、好き。不思議。

 

 

でも、人が相手か、そうでないかは、やっぱり違う。

 

 

みんなが、みんなを好きで。好きが溢れていっぱいで。それで十分なんじゃないかなって。

ただそれだけの、綺麗な世界が良いなって、思うのに。どうにもそれは難しいらしい。好きが返ってくるかは、分からない。好きが返ったとして、同じものである可能性はほぼゼロだ。一人一人、価値観が違うように。誰かが誰かを好きで、その誰かも誰かを好きで、でもその好きは同じものとは限らなくて。例えそれを同じ「恋」だとか「友情」だとか「親愛」だとかいう同じ言葉で呼んだとしても、やっぱり色も形も手触りも違っていて。すれ違っている人も、パズルのように組み上げている人もいて。似た色をしている人もいて。

 

単純な言葉で片付けたくない。片付けてほしくない。自分が持つ、自分だけの「好き」を、捨てないで、雑にも扱わないで、大事にして欲しい。そんな気持ち。色も形も手触りも。もちろん相手によって変わっていく。けれど私は私の周りを、私が好きで私を好きな人だけの、綺麗な「好き」で満たしていきたいなと、改めて思う。

 

 

 

「国民性」とはなんなのか。〜テセウスの船を切り口に〜

 

テセウスの船」というパラドックスを、知っているだろうか。

 

テセウスの船」という船がある。時を経て、船はどんどん老朽化していき、故障の度に部品を入れ替え、ついに全ての部品が交換されてしまった。

元のパーツが一つもないこの船は、果たして元の「テセウスの船」だと言えるのだろうか。テセウスの船をテセウスの船たらしてめているものは、一体何なのだろうか。

 

先日、ある研修を聴講した。テーマは「多文化共生」。国際交流から留学、移民の受け入れ等に関する内容で、少子高齢化や障害・性的少数者も絡めて話をされたので講義自体は大変面白かったのだが、その中で受講生からこんな感想があった。

「人口減少・少子高齢化で共生にばかり邁進することで、日本人が消滅するのではという危機感がある。日本人の暮らし向きがよくなるための手段として、人口(生産年齢)減少してもDX化等により社会が成立する様な施策により、日本人が排他的でない誇りを取り戻した先に共生を実現したい。」

(チャットで質問ができる方式だったため、原文そのままである。)

 

…今まで何を聞いてきたんや!?と言いたくなる感想なのだが、まあそれは一旦置いておいて。

 

日本人が消滅するのでは、という危機感。この言葉が指す「日本人」とは、一体何なのだろうか。一体「何が」消滅したら困るのか、「何が」日本人を日本人をたらしめているのか。

 

冒頭に戻ろう。

 

日本生まれ、日本育ち、日本国籍黄色人種がいる。時を経て、そういった人々がどんどん減っていき、労働力が足りないので代わりに外から来た移民や難民、外国人たちに日本国籍を与え、ついに全ての人が外国から来た人となった。この人たちは日本人だと言えるのか。この国は日本だと言えるのか。

 

この場合、テセウスの船と違うところが二つある。一つ目は、日本人であれ外国人であれ、パーツは常に入れ替わっているという点。そして二つ目は、パーツに意思があるという点。

 

私の、テセウスの船に対する回答はこうだ。

 

テセウスの船をテセウスの船たらしめているものは、周りの目である。船は船で意思がないので、乗る人が、見る人が、それをテセウスの船だと認識しているならばそれはテセウスの船であると言える。たとえ部品が変わっていようと、見た目が変わっていようと。仏像なんかを想像すると分かりやすいのではないだろうか。たとえ部品を変えたとしても、全て当時のものでなくなってしまったとしても。それを仏像だと信じ、祈り、助けを乞う人がいる限り、それは変わらず仏像であり続ける。

 

日本人が消滅することなど、国家が消滅しない限りはあり得ないと私は思う。確かに外国から来る人が増えれば、文化は摩擦で大きく変わっていくのかもしれない。だがそれは外国から人が来ずと起きること。日本人が今も昔も全く同じ精神を持っているかという点については甚だ疑問だ。変化の傾きが大きくはなるだろうが…。それもまた面白いこと。

 

どんな見た目であろうと、どんな背景を持っていようと。例え国籍を持っていなくても。周りが、そして本人が同じ日本人だと思えば日本人になるし、異国の者と思えばそうなる。それが良いことかどうかはこれまた疑問だが。

 

ということは。

 

人種や国籍に関係なく、「共に暮らす仲間」だと互いに認識すればそうなるわけで。結局は目に見えぬ人たちの集合体なんて、中身のない脆いものなのではないかと、私なんかは思うのですが、いかがでしょう。

 

これもまた狭いコミュニティに逆戻りする「ムラ」意識なのかもしれないと、思いつつ。

 

さあ、皆様はどう考えますか。聞いてみたいような、そうでもないような。

 

 

 

 

「盲目的な恋と友情」感想文

もし、自分にとっての大切な人が、この世にたった1人しかいなければ。

 

 

 

私も、こんな風になってしまうのだろうか。

 

 

 

そんなことを、ふと考えた、小説「盲目的な恋と友情」読了後の夜。

ネタバレありき、読んだ人にしか伝わらないであろう読書感想文。夏休みの宿題としては0点のそれを、つらつらと書き連ねてみる。ただいつまでも書き終わらない気もするので、とりあえず出してちょっとずつ書き進めていこうかな。

 

 

「恋」パート。

 

 

鮮烈な恋の始まり。最後のトリックのためもあってか、全編通してかなり主観的な目線で描かれており、だからこそ、その盲目さが際立つ。実際のところ、茂実は本当に蘭花に恋をしていたのかどうか、いつからなのか、それすらかなり怪しい。菜々子が、その怪しさが正しいことを証明してくれる。

 

 

この物語の元凶は、元を辿れば菜々子だ。

 

 

菜々子の動向やその胸の内は、茂実を盗られた(というか最初から手に入れてすらないのだが)、蘭花の目線でしか描かれない。だから、それが本当に正しいのかすら、分からない。ただ分かるのは、蘭花が「そう」受け取ったという、ただそれだけ。

 

 

蘭花の目線からは、茂実と、彼の恩師の妻である菜々子が寝ていたということ、そもそも蘭花と付き合い出したのも菜々子がきっかけらしいということ。そしてそれを茂実は隠しているということ。それから、茂実がかなり菜々子に依存しているということ。

ただ「友情」パートの留利絵を見ていると、蘭花のその受け取り、解釈すらも危ういように思えてくる。いや、小説はフィクションなのだから書かれていることが事実とするしかないのだけれど、それすら。一登場人物の見立てでしかないというのが、面白い。

 

 

こんなことが、現実に、身の回りに起きていたら。私の友人だったら、間違いなく止めているだろう。どう考えたって茂実みたいなのと一緒になったって幸せにはなれない。もし私が当事者だったら、きっと誰かが止めてくれる。止めてくれると信じられる友人達がいる。けれど。

 

 

蘭花にだって、いたのだ。そういう友人達も、親も。愛されて育ってきた子。それでも。どうにも逃げ出せなくなって雁字搦めになって、最後には相手に死んでもらうしかなくなった。そういう、どうしようもなさは、一体どこから来るのだろう。分からない。分からないけれど、分からないなりに追体験できるのが、小説の良いところで。なぜかは分からなくとも、私はそれを理解してしまうのだ。蘭花を通して。ああ、これは盲目になっても仕方がない、どこへもいけなくなっても仕方がない、と。

不思議で、とても面白くて、同時にとても怖いことだ。そんなこと、身の回りに起きてもらっちゃ困るな、と。

 

 

 

そして後編「友情」パート。

 

 

 

後編を読む事で、それぞれの視点での捻じ曲がった部分や、空白の部分が補完されていく。彼女が泣いた本当の理由。喧嘩の理由。それから、彼の死の真相と、彼女の最後の裏切り。蘭花は、最後のボタンを違えたばかりに裏切りにあったように見える。けれど彼女らの前には、もうずっと前から綻びがあったのだ。

 

 

もし、と思う。

 

 

もし、私に大切な人がたった1人しかいなかったら。こんな風に、身も心もボロボロになる羽目になるのだろうか。想像もできないけれど、だからこそ、考えるのだ。もし、と。

 

「幸せの青い鳥」を終えて。

劇団ミュージカルパーク定期発表会「幸せの青い鳥」、無事終演いたしました。ご来場いただいた皆様、公演にあたってご協力いただいた皆様、誠にありがとうございました。ご自身にとっての「青い鳥」について、ほんの少し、思いを巡らせていただけたなら幸いです。

 

 

さて、ここからは完全なる私の独り言であり、一緒に公演を作ってきた皆さんに宛てた私信であったりもします。お客様にとっては、観ていただいた結果が全てで、思うことも経過も、作品の中で伝わっていなければ、それはないも同然。だから、誰でも見られる形で残すのかどうか、少し迷ったのですが。口にするとさらりと流れてしまうたくさんの感謝と、今の私の胸の内をきちんと記しておきたく、ブログにアップすることにします。

 

 

まず先に、初めて挑戦した振付のことを少し。

 

 

今回、冒頭のクリスマスダンス、思い出の国へ、最終決戦の一部分を振付させてもらいました。この振りはこの人は踊れそうか、全員でこの動きはできそうか、立ち位置はこれでいいか、等々…。いろんなことを、これまで振付や指導をされているゆかちゃん、ちーちゃん、かおりさんに相談しながら、なんとか形にできました。説明力がないので、振り落としにも時間がかかること、かかること。初回の振り落としの日は毎回微妙に憂鬱で、終わった後はドッと疲れる。これを何年もずーっとされているお三方は本当にすごいなと、自分でやってみて改めて、尊敬と感謝の思いが湧いてきました。

そして、出演者の皆さんに心からの感謝を。頭でイメージしても思い通りにいくとは限らなくて、落としてから振りが変わって覚えなおしてもらうことも何度かあった。立ち位置に対しても振りに対しても、色々思うことはあったかもしれないけど。

私が思い描いた以上の絵が舞台上には広がっていて、それは当然、出ている皆さんの力でしかなくて。私の拙い説明、振りを、素敵なものに仕上げていただいて、本当にありがとうございます。

 

 

 

そしてここからは、「瞳」という役について。

 

 

 

台本を最初にもらった時、一番やりたいと思ったのが瞳でした。人によって見え方が違う存在。相手を映す存在。難しそうで、でもやりがいも大きそうな役。完全に一から作っていける役。そして何より、私がごくごく短い26年の人生の中でほんのわずかずつ学び取ってきて、今なお意識して学んでいる最中の、でも忘れがちで、大事にしたいことを象徴する存在のように思ったから。

 

 

だから、配役が決まった時は本当に嬉しかった。でも同時に、プレッシャーでもありました。瞳をやりたい人が他にもいたのを知っていたし、知っている以上に、やりたい人はたくさんいただろうなと思うから。台本の時点でやりたい人が多い魅力的なキャラクターである以上、演じた時にお客さんからして「魅力的だな」「つい見てしまうな」というところまで持っていくのが当然の最低ラインだろうなと思ったから。瞳の作り方次第では、この素敵なお話の中の大事なメッセージが、全く伝わらなくなってしまうことが分かったから。それでも、任せていただいたからには「かほにして良かった」と全員に納得してもらえるようにしたい、と思いました。

私は本当に、歴だけは長くて偉そうにアドバイスしたりもしているけれど、成長速度は亀のように遅くて、話の根幹に関わるような役をした回数は、実はそんなに多くありません。だから、他だったらもう10年にもなって「ここでこの子は頭打ち」となってもおかしくないところ、こんな風に今でも挑戦の場を与えていただけること、本当に感謝しかありません。

 

 

そしてもう一つ。「支える側」でいないと、というのも、最初はもう一つのプレッシャーでした。これは勝手に背負っていただけなのですが。

以前発表会で主演をさせてもらった時、明らかに私は「挑戦者」の側で、みんなに助けてもらって、支えてもらって、やっとの状態でした。本当はもっと引っ張らなきゃいけなかったと今でもずっと後悔しているのですが、あの時は自分のことだけを考えていてもまだ許された。

でも今回、一番重いものを背負う挑戦者は間違いなく主演の2人。私自身も挑戦者で、でも間違っても私が2人の足を引っ張るわけにはいかないから、2人が安心して自分のお芝居ができるように。もしできることなら、私がたくさんの人に支えてもらったように、ほんの少しでも2人の荷物が軽くなるように、高く飛べるように。そんなことを、ぼんやりと思っていました。まあそんな気を回さなくても、勝手にぐんぐん伸びていく2人だったので、こちらのプレッシャーはすぐ消えました。むしろ、とてもたくさん刺激をもらっていて。足は引っ張らずにすんだかな。

 

 

自分の役作りについての紆余曲折と結果は、ご覧いただいてきた通り。ただ、やっていく中ですごく面白いなと思ったことが。

 

 

最初、瞳の本当の正体が分かるシーンから逆算して、どのシーンでどこまで悪役感を出すか、ということを迷っていました。でも合宿の時に、一つ転機が。

二日間の2人の頑張りを見ていた私は、正直とても気持ちが穏やかというか、2人を応援する気持ちと「ここまできたんだな」と嬉しく思う、その気持ちのまま通しに挑んでしまいました。結局その気持ちは最後までうまく戻せず、最終決戦前もとてもやさしい気持ちのままでした。終わって「優しすぎたかな」と反省していると、とても良かったよと言われました。おや?おかしいな??

それを機に、あんまり「悪役っぽさ」を意識しないようにしました。それまでなんとなく自分の中でブロック分けして、悪役らしく見せたい時はこういう感じ、優しく見せたい時はこういう感じ、この人との時はこうしてこのセリフの時はこういう顔で…と、細かく切り分けて組み立てようとしていた全てを、一度全部取っ払って、「瞳の根っこはこういう思想のこういうキャラクターだ」ということだけを念頭に置くようにしてみました。

すると、そのあたりを境に、芝居が良くなったらしい。なぜかは分からない。瞳(というか私だけど)は最初から最後までひたすら「二人可愛い!大好き!頑張れ!」としか思っていなくて、意地悪な気持ちも怖がらせるつもりも一切ないのに、なぜか怖いと言われる複雑怪奇。女王様も猫も大好きとしか思っていないのに、苦手と言われ避けられる。なぜ??あれ、これってまさに瞳の心境?ちょっとしたアハ体験でした。

 

 

でね、なんでこんな話をしたかというと。

 

 

瞳の「相手を映す」って、その瞬間瞳の芝居をする私自身にも同じことが言えるんだなって思ったんです。私が内心「瞳をこういう役にしよう、こう見せよう」って考えて、行動したとしても、そう見えなかったら意味がない。それは間違いなくそうなんだけど、「そう見える」かどうかも、私が何をするかではなくて、見ている人の目に委ねられているんだなって。もちろんだからといって何をしても良いわけではなくて、意図があるならそう受け取ってもらえるような稽古や工夫は大前提として必要だけど、最終的には「どう見えるか」「どう見せるか」なんて考えていてもあんまり意味はなくて。私は私が思う瞳として、素直に2人と、そして舞台上のみんなと一瞬一瞬向き合ってみることが、瞳を演じるってことなんだろうなと。私にできたことはそれだけで。

 

 

だからね。どのシーンも同じ瞳に見えていたり、瞳の中に「たつみかほ」が見え隠れしたりしていたなら、それは単に私の力量不足なんだけど。

 

 

もしも、瞳がシーンによって違うように見えていたなら。悪役に見えたり良い人に見えたりしていたのならば。

 

 

それは、瞳と対峙しているチルチル・ミチルや、魔法使い、夜の女王、精霊たち、そしてその場にいる出演者全員が、瞳をそれぞれに「このシーンの瞳はこういう存在だ」と認識してそう扱ってくれたから。音や照明やストーリー展開で、「こういう存在だ」として分かりやすく示してくれたから。そして、その全部をお客さんが拾いあげて、瞳を各シーンごとに「こういう存在」として「見て」くれたからなのです。私だけでは絶対に成り立たない。衣装も変えていない、笑顔ベースなことも変わらない、瞳(私)自身の2人に対する胸の内も、反応はあっても2人のことが大好きだというベースは変わりません。その中で違うように見えたとすれば、間違いなく見ている人が、私に、そのシーンにあるべき瞳の姿を映してくれていたからだと思うのです。

 

 

くどくどと長くなりましたが、だから私の力はほとんどなくて、関わったぜーーーーーーんぶの方が作り上げてくれた「瞳」なんじゃないかなって、私は思っているのです。私自身は、難しいことは全部、一緒にシーンを作る皆さんと受け取るお客さんにお任せして、楽しくのびのびとやらせていただきました。本当に本当に、ありがとうございます。

 

 

次回は、さらにレベルアップできるように。引き続き精進していきたいなと思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

性と、社会。事実と思い込みの複雑さ。

7月12日。

たまたまこの日の朝からとつとつと書き始めていたのがこの記事なのだけれど、あまりにタイムリーすぎる悲しいニュースに、その日の夕方愕然としたのを覚えている。

 

 

ryuchellの訃報。

 

 

色んな意味でたくさんの影響を世の中に与えた人で、きっとこの人の自殺は、今後色を変え、様々な形で世の中に影響を与えるのだろうと思う。それが、本人の望んでいなかった形で作用する可能性も秘めながら。

ご冥福を、お祈りいたします。

自殺した方に、そういう言い方をするのか分からないけれど。

 

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私は、ちょうど「LGBT」という言葉が(良くも悪くも)流行り出すちょうどその転換期辺りが、自身の「性」と向き合う時期と重なっていた。

大学で社会学を専攻していたこともあり、様々な角度から「性」について調べ、考える機会がたくさんあった。

 

 

だからといってそれが十分だとは全く思わないし、知らないことは山ほどある。それでも、人並み以上には知っていることがあるし、自分なりの(若干偏った)思想もそれなりには育っている。

 

 

 

まずもって、LGBTという言葉があまり好きではない。伝わりやすさを優先して使うことはあるけれど、基本的に「セクシュアルマイノリティ」の呼称を使うことが多い。

これは、LGBTという言葉が「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」という4つの性の略称であり、その4つの性しか表していないからだ。

後ろにQ(クィア、クエスチョナー等)や+(その他)をつける表記もあるけれど、それにしたって、4つに当てはまらない人は「その他」でくくられてしまう。性別違和のない異性愛者以外の「セクシュアルマイノリティ(性的少数者)」の中に、さらにマジョリティ(LGBT)とマイノリティ(それ以外)の壁が生まれ、分断されかねない言葉だなと、常々思っている。

 

 

 

「SOGI」という言葉がある。LGBTのように、セクシュアルマイノリティに関する別々の呼称の総称ではなく、性を定義する「性的指向(Sexual Orientation)」「性自認(Gender Identity)」という2つの指標の略称である。

 

 

 

性的指向はどんな性別を好きになるか、性自認は自分自身をどういう性だと認識しているか、を示している。つまり、SOGIはセクシュアルマイノリティにのみ関連する言葉ではなく、全てのセクシュアリティに関連づく言葉なのである。加えて「性表現(Gender Expression)」や「身体的性的特徴(Sex Characteristics)」、「恋愛的指向(Romantic Orientation)」等でも、自身の性を表すことができる。また、これらは全て「男か女か」で一概に表現できるものでもない。両方、あるいはどちらもない、中間等々。性というのは、普段何気なく認識しているものよりも非常に複雑で、多様なのだ。

 

 

私がここまで性にこだわるのは、性別的役割や性別につきまとうイメージに、うまく馴染めずにいるから。

 

 

なぜ、女の子は足を組んではいけないのだろう。

祖母に何気なく言われたたったのひと言が、私の中には今でもずっと残っている。

 

 

今なら分かる。もしも私が男の子だったら、「行儀が悪いから足を組むな」と祖母は言っただろう。たまたま私が女の子だったからそんな言い方をしただけで、何の他意もなかったと思う。ただ、当時の私にとっては、その言い回しがとても不思議だったのだ。

 

 

不思議だっただけで嫌な思いをしたことはないから、性別違和ではないのだと思う。実際、いわゆる「女の子向けアニメ」が私は大好きだったし、たいていは「女の子らしい」遊びをしていた。ただ、不思議だな、と思うことが多くて。その度に聞き返しては、困らせたり、怒らせたりを繰り返していた。

 

 

大学に入り社会学を学ぶ中で、本格的にLGBTセクシュアルマイノリティといった言葉に触れる機会も増えた。その中で、今でも覚えている友人とのやり取りがある。全くテーマの決まっていない、しいて言うなら「大学での学び方」のような演習の授業で、グループごとに討議をしていた時、何がきっかけだったかこんな話をしたのだ。(一応断っておくと、ただの雑談というわけではなく「世の中の疑問を出してみよう」みたいな話の流れだったと思う。討議の一環として話していたはず。)

 

 

「そもそもさ、好きな人と付き合う相手と性行為する相手と結婚する相手を一緒にする必要ってある?」

 

 

自分で言い出したのか、誰かが言い出したのかはさっぱり覚えていない。でも私はこの時のやり取りがものすごく腑に落ちた。当時恋愛というものがよく分からなかった私は、きっとこれを機に卒論で「性」をテーマにすることになったのだろう。

 

 

……やっと、当初書こうと思っていたところまでたどり着いた。けれど、もう彼(彼女?)はいないから、最初に書こうと思っていたようには書けなくなってしまった。

余談だが、毎度文章を書くと「その人」を指す、性別を問わない言葉はないものかといつも頭を抱えてしまう。というか、「彼」が男を指してそこに「女」をつけると女を指すということ自体、どうなのかと思ってしまう。俳優女優しかり、その他もたくさん。そういう意味では、あえて彼を使うのも一つの手かもしれないな。

 

 

なぜ彼は「父」でなくてはならなかったのだろう。

なぜ彼はかわいい恰好をすることを否定されたのだろう。

なぜ彼は離婚を非難されたのだろう。

 

 

…そして、なぜそんなバッシングを「男」という属性と結びつけられなくてはいけなかったのだろう。もし彼が本当に子育てを全くしていなかったとして、どうしてそれが「男」という属性と結びつくのだろう。私には、どこを切り取っても分からないことだらけで、やっぱりうまくなじめない。彼の自殺の原因は分からない。ファンでもなかったし彼の発信内容すらもよく知らない。他人である私には、何の予想もできない。けど。

例えばもし、彼が本当に「女」になりたくて、「男」という性になじめなかったのだとしたら。もちろん子育てのことや離婚に関するバッシングも辛いだろう。加えて「やっぱり男だ」という言葉は、彼のセクシュアリティに関するアイデンティティを根底から破壊する、とても鋭い武器になりえたのではないかと思う。まあこれはあくまで「もし私だったら」でしかないけれど。そしてそれはそのまま、今現在性別違和を抱えるすべての人に対する攻撃となる。どれだけの人を傷つける言葉になりえるか、想像したことがあるだろうか。

 

 

だいたい、言葉は、そのまま自分に対しての呪いになると、なぜ分からないのか。その言葉に、自分が先々縛られていくのに。

 

 

「子育てに対して無責任。やっぱり男だ。」→女は子育てに責任を持つ生き物だ。

「離婚して子どもを女に押し付けた。」→女なら子どもを引き取って面倒を見るもの。

「そもそも離婚が無責任」→離婚してはいけない。子どもは夫婦そろって育てるもの。

「女みたいな恰好して気持ち悪い」→女=可愛い恰好。いや男女関係ある?好きな恰好すりゃよくない?

 

 

とかね。大げさって思う?でもね、本当に全部返ってくるから。見てな。思い込みって、何気なく出てくる言葉に全部透けて見えるものだから。そんで、言語化すればするほど、その思い込みは強化されていく。人に対して厳しい人は、自分に対しても心が狭くなる。そして、それをまた他人のせいにしてループして。そんなことを繰り返しても、自分が幸せになれるわけじゃないのに。かわいそう。

 

 

最近、LGBTみたいな言葉が流行るとそういう子が増えるとか、混乱してかわいそうとかいう主張も見かける。確かに、どっちも自由に選べるって言われたら困っちゃうよね。

 

 

これは私個人の価値観なんだけど…。選ばなきゃいけないくらい、男女の社会的扱いが違うことがまず問題じゃないか?私はトランスジェンダーじゃないので、本当の意味で彼らのことを理解することができない。だからこんな好き勝手言えるのだけれど…。もし本当に平等に、同じように社会生活が送れるなら、身体の性別に抗う必要も迷う必要もないからそれで増えることは基本的にないと思う。どちらか選べますって選択肢を与えられたときに、わざわざ変えたいと思うほどには男も女も不自由していて、だから異性を羨む。異性の不自由さを想像もせずに。

いちいちそんなことを悩まずに、自分を苦しめる思い込みの方を、型の方を取り払う努力をした方が、よっぽど建設的だと思うのだけれど。

 

 

放っておくと、勝手に型が取り付けられていく世の中だから。意識的に外していきたいんだ、私は。

 

 

本当は性犯罪のこととかも書くつもりだったんだけど、あまりに長い&この記事と同じところにまとめるのは嫌になったのでまた次回。

 

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幸せって、何だろう⁇

人にはそれぞれ、大切なものがある。

 

 

夢、目標。思い出、未来。

家族、友達。

富、名声。正義、愛。

 

 

幸せでありたいと願わない人はいないだろうけれど、その幸せの形は様々だ。

 

 

例えば、自由であることや自分で自分の道を決めることに幸せを感じる人もいる。

それが不安で、人に決めてもらうことが幸せだと感じる人もいる。

 

 

今楽しければそれで良い人もいれば、もっと大きな目標に向かって努力することが幸せな人もいる。

 

 

自分を高めることに幸せを感じる人もいれば、人のために行動することに幸せを感じる人もいる。

 

 

そのどれもが正解で、尊重したいと思うけれど、本人が無自覚だと難しい。環境ももちろんあるし、持って生まれる性質もあるけれど、やっぱり最後に選んでいるのは自分なのだ。

 

 

でも、だからこそ、人が選んだ道は妨げたくない。何がどうあれ、選んでいるのは本人だから。

 

 

究極のオープンワールドな現実で。

 

 

遠い目標のためにただ一つの道を決めてまっすぐ進むのも、あちこち寄り道しながら歩くのも、どこへも行かずに近くに見える景色をただ楽しむのも、全部全部素敵なことだ。

 

 

迷うのも、悩むのも、苦しむのも、全部。

人に決めてもらうのも、言いなりになるのも、全部。

それを、自分で選ぶのも、立派な選択肢の一つ。

 

 

本音と言動が一致しないことなんて山ほどある。でもそれも、一致させないことを自分で立派に選んでいる。

 

 

毎日毎日、全部が小さな選択の連続で。でもそれがどこへ向かうのか、どこにも向かわないのか、本当は誰にも分からなくて。分からないから、迷う。情報の海の中、人の森の中、正解を求めて右往左往する。

 

 

でもね。

 

 

大事なもの一つ握りしめていれば、例えどんな道を選んでも、きっと行きたいところに行ける。幸せに辿り着ける。

 

 

私自身が本気でそう思っているからこそ、表面だけじゃない言葉尻じゃない「核」を、溢さずに届けたいなと思っている。

 

 

 

劇団ミュージカルパーク定期発表会

「幸せの青い鳥」

8月26日(土)13:30〜

滋賀県大津市生涯学習センターにて。

ぜひ、お越しください。

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(あれ、ただの長めな心のつぶやきのつもりで書き始めたんだけどな⁇いつから宣伝ちっくになったんだ、おかしいな⁇)

 

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