くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

他人の思考を変える。行動を変える。

って、難しいねって話。仕込みの前日に、久しぶりにブログ書き始めたら、当然公演のことかと思うじゃん??これが違うんですね~~。いや、それも書きたい気持ちはあるんだけど。

 

職場の人が、一人、ダウンした。原因は、分からない…と言いつつ、十中八九これだろうな、みたいなものはありつつ。

 

まあ、それはいいんだ。よくはないけど、まあ、私にはその原因はどうしようもないので、それはそれとして。

 

人が、人に、物事を教えたり、アドバイスしたり、意見するってすごく難しいなぁと近頃思う。技術的なことは良い。「正しさ」「より良い」が分かりやすいから。仕事の内容に関することも、まあおおよそ上司だったり、経験が長い人だったり、「より正しそうな人」がいるものだし、それに従いたくないって時はそれくらい「自分が正しい」と確信がある時だから、これもある意味分かりやすい。

 

「考え方」「価値観」に関わることって、正しさがないからすごく難しい。正しさがないから「教える」という表現自体がふさわしくないのかもしれない。だから言えない。口を出せない。だってその人にはその人の人生があって、考え方があって、思考のくせがある。でもそれは私にだってある。自覚してるものしていないもの、色々だけれど絶対にあって、だから私の考え方が「より良い」なんて言えないし「より良い」ものなんてそもそもない。

 

ただ。

 

こういう結果になってしまってから、後から思うのだ。口を挟めば良かったのかなぁ、そしたら何か変えられたかなぁ。何も変わらなかったかもしれないけれど。悪化させたかもしれないけれど。

 

そう、自分の言葉で余計に追い詰めそうな気がして、私は関わるのをやめたのだ。正論を振りかざしても仕方なくて、相手に受け取ってもらって、行動が変わって初めてその言葉は意味を持つ。言えば良かったなんて今思っても、それは結局自己満足でしかなくて。上手に伝える手段を、相手にそれを受け取ってもらえる形に整える技量を、私は持っていなかった。相手の受け取る力を信頼できなかった、という言い方もできる。

 

謝ったって、反省したって、次の行動が変わらなければ意味がないのだ。私はそれを再三人に言われ、自分で実感し、それでもまだ変わったり変わらなかったりするのだけれど。結局行動が変わらないのは、逃げでもあり怠惰でもあり、自分が変わらずとも受け入れてもらえることの証明もしくは甘えでもあり。ただその行為で、相手からの信頼を使いつぶしていることもまた事実であり。たとえ相手がその場でどんな言動をとろうともそれは変わらなくて。

 

自分と似てるからこそ、イライラして、関わりたくなくなるのかもしれない。

 

だからこそ私は、ここ数年で自分が学んだそれを、伝えたら何か変えられたかもと思いたいだけなのだ。自分がいくら謝ろうと、その仕事は消えないこと。自分ができなければ誰かがやらなくてはいけないこと。その「誰か」にとっては、反省の態度よりそれを減らそうと行動する方がよほど意味があること。無理なことは無理と言う方が良いこと。後から押し付けるよりさっさと頼んだ方が相手も気持ちが良いこと。全部回りまわってみんなのためで、自分一人で抱え込む方が自己中で迷惑だということ。「どう思われるか」「相手がどう思うか」より「相手のためになるのは」と考えた方が良いこと。

 

…「相手のためになるのは」と考えた結果、私は言わなかったのだ。こんなのは、何も「正しさ」ではないし、価値観でしかないから。その判断が正しかったか間違っていたかは今更分からない。

 

ただ事実として、その仕事は今、私の前に移動して堂々と立ちふさがっているわけで。ぎゃあ。まあいくら後悔したところで、私一人では変えられなかったことでしょう。イレギュラーを免罪符にしていっぱい他人に振ってやろ。

 

よしおしまい!!切り替えて!!3日間、張り切って参りましょう。

一通のお手紙から。(クルミドコーヒーの「お手紙コーヒー」を巡る私のあれこれ)

さかのぼること、約5か月。7月、某日。家のポストに、一通のお手紙が届いた。「KURUMED POST OFFICE」からだ。3月の東京の風が、ふわりと心に灯ったような気がした。

 

3月初旬。私は、ようやく馴染んできた不思議な共同生活の場から離れることを惜しんでいた。派遣研修という名の転勤。たった半年。期間限定の職場。期間限定の、立場も年齢もバラバラな同僚たち。そのみんなとの、期間限定の寮生活。終わりが決まっていたからこそ、失敗を恐れずに深く関わることができたのかもしれない。終わりが決まっていたからこそ、短い時間を惜しみ、たくさんの思い出を作ろうと駆け抜けたのかもしれない。今更のような青春の日々。終わりがあるから駆け抜けられた。だけど、やっぱり終わりはさみしいもので。

 

生活も仕事も共にしていた仲間たちも、きっと同じことを思っていたのだろう。次第に、共有スペースで人に会うことが増えた。あまり寮内で出会わなかった人と顔を合わせる回数が増えた。意味もなくだらだらと話す時間が長くなった。せっかくの都会暮らしなのに、外に出ればお店も沢山あるのに、という考えもちらりと頭をかすめるけれど、そんなの帰ってから、自分で旅行でもすればいつでも行ける。今この人たちと過ごせる時間は、きっと今しかない。

 

そんなある日、年の離れた珈琲好きの友人……と、言うには少しばかりくすぐったいが、先輩・上司というにはとても距離の近い、3つ隣のご近所さんが、食後に珈琲を入れてくれた。豆から入れた美味しい珈琲を2人で飲みながら、ご近所さんは、やっぱり珈琲の雑誌を眺めていた。その雑誌はご近所さんが東京に来た時に買ったもので、いつも共有スペースに置かれていた。東京のおすすめ喫茶店がずらりと並んでいて、東京に慣れない私たちは、時々その雑誌を眺めて東京を感じたりしていた。その日、横から雑誌を眺めていた私の目に留まったのは、JR中央線 西国分寺駅から徒歩数分のところにある「KURUMED COFFEE(クルミドコーヒー)こどものための、大人の物語 - KURUMED COFFEE」というお店だった。理由は一つ、「お手紙コーヒー手紙を送るように、まだ見ぬ誰かにコーヒーを贈ってみませんか? | クルミドコーヒーのブログ」。

なんだかとっても面白そう。お店の雰囲気も良さそうだし、クルミも大好きだし、何より知らない誰かのために「珈琲を送る」「手紙を書く」というやり取りにちょっぴりワクワクした。行ってみたい、と直感的に思った。けれどその日以降、一人で出かけるような日はついに訪れず、仕事に遊びにと忙殺されて、しばらくの間私はすっかりその存在を忘れていたのだ。

 

気が付けばあっという間にひと月、東京を離れるその日。荷造りの遅いめんどくさがりな私は、最後の休日のお昼頃にようやくスーツケースに荷物を詰め込み、同期の中で唯一の東京都民に見送られながら寮を後にした。途中、同じ「研修派遣」を何十年前に経験した大先輩におすすめされた(そしておすすめされたにも関わらずこの日まで行かなかった)うなぎ屋さんで、おすすめされないと食べないような高級なうなぎを食べつつ一人感傷に浸っていたところ、ふと思い出したのだ。「お手紙コーヒー」の存在を。幸い場所も近く、新幹線もまだ予約していない。今行かなければ、次はいつになるか分からない。行くなら今日だ。今だ。早速、重たいキャリーをずるずるとひきずりながら西国分寺駅へ。入口をくぐると、大人一人では場違いかと思ってしまうようなかわいらしい内装。入ってすぐに秘密基地のような小さな空間があり、入って子どもが遊べそう。すぐ横にぐるっと螺旋階段があり、上が喫茶空間。そこも、広い平らな空間ではなく、段差やくぼみがあったり、カーブを描いていたり。なんというか、建物全体が「木の上のリス小屋」っぽいような、不思議な空間。でも落ち着く。まず席に着いて、メニュー選び。お手紙コーヒーを頼むことは、最初から決めていた。でも自分が飲むものはどうしよう?お手紙コーヒーを受け取ってもいいけれど…う~~ん。悩みながら、飾ってある「お手紙」コーナーへ。ほとんどが「○○な人へ」となっているけれど、残念ながら私が当てはまりそうなものは今はなさそう。結局悩んで、くるみのカフェオレをチョイス。席には殻に入ったくるみと、木製のくるみ割り器。可愛い。せっかくなので割ってみたが、これが意外と難しい。リスってすごいな。飲み物を待っている間、色んな人が書いたお手紙を読みながら考える。何を書こうかな、誰に書こうかなぁ…。悩んでいると、あっという間に白紙のお手紙とくるみのカフェオレが運ばれてきた。飲みながら、また感傷に浸る。

 

半年間、本当にあっという間だったな。またみんなと会えるかなぁ。みんな、なんて、到底無理だ。半年間で、学校生活全部分くらいの人と出会ったのだから。きっとみんな、仕事がよくできる人たち。この先出世していくような人たち。だけどそれ以上に、とてもとても人間ができていた。前向きで、自分にできる範囲を知っていて、その中でやれることを考え出せる人たち。他人の立場を想像して、それを守れる人たち。俯瞰できる人たち。人と協力できる人たち。当たり前に大切で、だけどなかなか実践できないこと。それが「仕事ができる」ってことなんだろうと思う。事務処理がさばけるとか、知識があるとか、もちろんそれも大切だけど。私は一番下っ端で、働く場所も立場も違っていて、あの人たちみたいになれる未来は全然想像もつかない。だけど、一緒に働けたこと、過ごせたこと。そこで、肌でたくさんのことを学べたことを幸せに思う。誇りに思う。日常に戻ったらきっとすぐに忘れてしまう、戻ってしまう。だけど時々会って、この気持ちを忘れないようにしたいと思う。

 

手紙の宛先は「これから旅立つ」あなたへ。半年の旅を終えた私から、あなたの旅が素敵なものになるよう、願いを込めて。タロットカード0番「愚者」、意味は「何も持たない無限の可能性」。

 

7月、某日。家のポストに、一通のお手紙が届いた。これから旅立つ「あなた」から、旅を終えた私に。心の自由を求めて広島から来たという「あなた」は、タロットの「フール(愚者)」が大好きで、出発前にこのカードのことを考えていたのだという。素敵な出会い。本当に。届いたお手紙で、自分の旅を思い出す。思い出して、夏頃には元ご近所さんたちと遊びに行った。お手紙を読み返し、ブログを書いて、また自分の旅を思い返す。そろそろまた、元ご近所さんたちに連絡してみようかな。

書く。かく。核。ブログをかく意味。

お久しぶりです。1年以上ぶりに、書いてみようと思います。

(10年以上前からブログを始めては作り直し、を繰り返している継続性皆無人間なので、いよいよまたブログを作り直す時期にきたか、と思ったのですが。1年はまだぎりぎり許容範囲だろう。

ということで、このままもう少しこのブログを続けていきます。いつまで続くか分かりませんが、スローペースでお付き合いいただけるととっても嬉しい。)

 

さて、何を書こうか。書きたいこと、思うことはたくさんあるけれど、どこから書こうか。どこから切り取ろうか。つくづく、文章力は自転車でなく筋トレなのだなと思う。書かなければどんどん書けなくなる。継続しなければ、積み上げたものはあっという間に消えてしまう。文章力よりも、継続力をつけるために。しばらくは、ちょこちょこ続けて書いてみることにする。筋トレよりストレッチより勉強より、私にとっては「書くこと」が一番ハードル低いのです。

 

私にとって「かく」は、頭の中のものを外界に吐き出すことを意味している気がする。

 

厳密に言えば「かく」は「書く」「描く」で、何らかの筆記用具を使用して自分の手で文字や絵を「かく」ことで、もしかしたらブログを「かく」という行為は「入力」していると表現する人もいるのかもしれない。「手がき派」からすると、電子機器を使用した「かく」は「かく」に値しないのかもしれない。

 

と、考えた時に、仕事で文章を作成する時に「かく」とは表現しない自分に気が付く。WordやPowerPointなら作る、作成する。Excelなら入れる、入力する。メモは「とる」。手書きをしていても、メモを「かく」とは言わない気がする。

 

手書きであろうと、電子機器であろうと。言葉であろうと、絵であろうと。自分の中に浮かぶ何かを形にして外に出す作業が、私にとっては「かく」なのだ。絵はめっぽう苦手なので、必然的に言葉になるわけだけど。何かを「発信する」というよりは、自分の中からひっつかんで、落とす。お鍋の肉団子みたいな感じ。綺麗な時もあれば、くちゃくちゃな時もある。まあそれでいっか、と思う。読み返して、自分が面白ければ良い。でもそれを日記でもなくわざわざブログに残すのは、やっぱりちょっとは、誰かに読んでみて欲しいからだとは思う。一人でポチポチ書いているこれが、一番取り繕わない自分のような気がするから。

 

「ブログが面白い」と言われたことがある。随分前だけれど。とっても嬉しい。自分そのものが褒められたようにも感じるし、話してみたいなと思う。

 

「ブログが意味分からない」と言われたことがある。分からないなら読まなくて良い。読んで欲しい、と思うのは「読みたいと思った人に読んでみて欲しい」だけであって、そういう人が一人でもいたら良いな、というだけであって、継続して読んで欲しいとか、色んな人に読んで欲しいわけではない。

…嘘、色んな人に読んで欲しい記事もあったりはする。でもそれは大抵、舞台の話だったり占いやMBTIの話だったり、情報的要素が多少織り交ぜられている、少しは読みやすいように自分が工夫した記事のことであって、こんな風につらつらと頭の中を並べただけの記事ではない。

 

「ブログが気持ち悪い」と言われたことがある。

……自分自身が気持ち悪いと言われた、否定されたような気がした。この人とは話ができない、これ以上はもう関われないんだな、という、どうしようもない断絶を感じた。わざわざブログなんか書かなきゃいいのかもしれない。先に、受け入れられないかもしれない自分自身を分かっていながら勝手に晒したのは自分で、だから相手に責任はない。まあ、わざわざ本人に言うなよ、とはちょっと思うけれど、それは置いておいて。

 

このブログは、私にとっては試金石のような役割を果たしているんだと思う。「考えが違う、同意できない」は良い。むしろどう違うのか聞くのが楽しくて好き。「理解できない」も別に良い。「理解させよう」というつもりは全くないから。それにあくまで私視点で、だから、このブログを読んでいて気持ち悪いと思う人を否定するつもりも全くない。ただ、読んで「気持ち悪い」と思う人とはあんまり関わりたくないから、私から離れて行ってくれたら嬉しいし、「面白い」と言ってくれる人とは積極的に関わりたいなと思う。対面で試した方が良い、と考える人もいると思うけれど、残念ながら私はそこまでメンタルが強くはない。人と話していると良く思われたいし、否定もされたくないから綺麗に包んで話したり、逆にその場の反応で必要以上に攻撃的になることもある。だから誰かに向かわずに考えをまとめるブログの中が一番フラットな状態の私だと、自分では思っている。

 

もちろんこのブログは随分前から書いているもので、人間は変化していくものなので、過去の記事と同じことを今の自分も考えているかというと100%そうではないけれど。

 

でも変わらない部分もきっとあるから、そういう意味で、このブログは私の「核」なんだと思う。

 

クォーターライフクライシス〜20代後半、人生の過ごし方〜

 

時々、考えることがある。

 

 

私の人生は、これで良かったのかと。もっと違う生き方もあったのではないかと。

 

 

たくさんの人に出会って、他人の生き方が羨ましく思える時がある。たくさんの情報に踊らされて、自分が置いて行かれているような、不幸せかのように思える時がある。私もみんなと同じように、同じペースで歩かなければ、近い将来後悔するのではないだろうかと焦る時がある。ずっと前から手放していたそれは、今更追いかけるにはあまりに遠く私の手を離れていて。

 

 

変化が間違いなわけじゃない。欲しいものが変わったのなら、それを今から追いかけたって構わない。それまで追いかけていたものをいつ手放したって良い。大切なのは「今」「ここ」の私の気持ちで、例えそれが変わったとしてもこれまでが無駄だったわけじゃない。過去の自分が懸命に追いかけたそれは、その瞬間の私の最善だったはずだ。

 

 

それでも考えてしまうのは、今の自分の選択に自信が持てないからなのだと思う。今に自信が持てれば過去にも自信が持てる。今に自信が持てなければ過去にも自信が持てなくなる。

 

 

 

 

考える。

 

 

私の人生はこれで良いのか。もっと違う生き方をしたいのか。答えはYESで、NOだ。間違いなく。

 

 

今の私が1番で、今の私が1番好きだと胸を張って言えるのは、いちいち悩んで、いちいち自分で決めてきたからだと思う。卒業、入学。就職。節目節目で、毎回悩んで迷って、でも結論は何度考えても同じ。私が人生の中で大事にしたいものはずっと変わらなくて、それは逃げでも諦めでもなくて。毎回悩んで迷うのも、私らしくて、それはそれで素敵だと思うのだ。そういう人生でありたいと思うのだ。

 

結論が変わらなくとも考えている悩みや迷いの種子は違っていて、それを精査してより強くしていく作業こそ生きていく意味で、私が私である証だと思えるから。

 

 

決意表明。より高く、よりしなやかに。防御ではなく受容。より鮮明に。私にとっての正解は誰に何を言われようと正解で、でもそれを心から思えていたならば、誰が何を言おうとざわつくことはきっとないのだ。他人は他人で、わざわざ他人を納得させる必要もない。私の人生なのだから。

 

 

 

友人から不意に、ぽんと1枚の画像が送られてきた。Xから拾った画像らしい。そこには、こんな言葉が書かれていた。

 

 

クォーターライフクライシス:自分が思い描いていた生き方と現実にギャップがあり、他人と比べて落ち込んだり、焦ったりする幸福低迷期。

 

 

図によると20代〜30代の期間に起きるものらしく、その間に恋愛、同棲、結婚、健康、出産、友人関係、転職、転勤、昇進、資格取得、留学、キャリア。そんな言葉がずらりと並んでいる。

私だけじゃない、きっとみんな同じだ。足掻いてもがいて、自分の正解を見つけていく。物語の中で、主人公が1番苦しくて、だけど読み手にとっては1番面白い転機が、クォーターライフクライシスなんだと思う。

 

 

 

すみま戦隊・モノトーントワイライト覚書

お久しぶりの、ブログ。にして、初めての観劇感想記事。とも言えないメモ書き。最近他の人の感想記事読んでびっくりしてる。あんな風には書けない、私は。まあいーや。

 

 

観てきたのはこちら↓

滋賀大学滋賀県立大学「劇団ZERO&深夜特急」「めんつゆコーラ」卒業公演『モノトーントワイライト』『すみま戦隊スミマンジャー』

 

 

情報量なんか多くない?

 

 

滋賀の大学生の卒業公演です。4回生の代を「めんつゆコーラ」と言うらしい。二本立て上演。

 

 

私、あんまりこういうの観たことありません。「こういうの」と言うのは、学生演劇。ぶっちゃけ言おう。私、別に演劇観るのそんなに好きな人間じゃないんです。というと語弊があるんだけど、優先順位が低いというのかな。自分で新しい劇団を探したりしないし、チラシを観て面白そうだと思っても実際に観に行くことはほとんどないし。外れるのがいや、なのかもしれない。全く縁もゆかりもなく、好きな役者も知り合いも出ていない、面白くないかもしれない作品にお金も時間も割きたくない。でも観た方が良いなと思うから、知ってる人が出ているとか、誘われたとか、オススメされたとか。何かと理由づけして重い腰を軽くしようとしている、感じ。

 

 

だから、劇団四季とか2.5次元とかそういう大手の?やつ以外は、ものすごく楽しみに観に行く、ということがあんまりない。

 

 

まあそんなわけで、学生演劇に縁がないとそりゃ行かないわけです。情報がそもそも入ってこない。入れようとしてないから当然入らない。

 

 

縁あって、初めてお知り合いができたので、そんじゃ観に行ってみるかーという感じ。

 

 

 

結果、行って良かった。本当に。しみじみと。これ無料で良いんですか⁉︎ていう。

 

 

 

まず一本目、すみま戦隊スミマンジャー。

これはコント?なのかな?パンフレット見て、歌がしっかりあってびっくりした。誰の声??始まって、MVがあることにまたびっくり。すごい、しっかりMVだ。だがしかしロケ地はオール県大。紛うことなき県大。懐かしの我が母校。なんだかしみじみと感動してしまった。

 

あとこのコンセプトね。大好き。多分これはFINALだから今更な感想なんだろうけど、なんかこー、謝ればOK好きに生きようっていう感じと、しっかり教育要素が入ってる感じが絶妙にコント味、パロディ味があっていーよね。謝れば何とかなる。分かる。26年それで生きてる。共感しかないどうしよう。

 

 

お芝居に関しては、灰とパープルのやり取りがコント味強くて、見ててとっても安心感があったな。

 

 

 

で、二本目、本編。モノトーントワイライト。

もーーーね、私の個人的好みというか、趣味にめちゃくちゃ刺さった。いろはちゃんの趣味と風の噂で聞いたので、私はとても感性が合うのだと思う。知らんけど。

 

 

最初、書いてあるあらすじの意味が分からなくて、全然違う話になったのか?これはボケなのか?あらすじ載せる意味あった?みたいな気持ちだったんだけど、そのまんまの意味だった。

…ていう脚本を書こうと思っていた、やろうと思っていためんつゆコーラのお話だった。

 

 

私が観たのは1ステ目だったからか、どあたまのモノローグみたいなところはみんなちょっと緊張があったのか分からないけど、なんとなくこちらもドキドキソワソワ、大丈夫かなーって思いながら観てた感じで。

ノローグってほんと難しいのよ。いや偉そうに言うけど自分の話じゃなくてガチの役者さんの受け売りだし、最近の自分は全力で棚にあげます。

で、特に言い回しが小説っぽかったから余計に、下手すると本当に青臭くて、白々しい感じになっちゃうと思うの。つい最近それでめっちゃこけてる作品を見てたから、余計に、出だしで「大丈夫かなぁ、楽しめるかなー」ってちょい不安になったのは事実。

 

 

なんだけど、ストーリー的にはすごく等身大だし、ああみんな大変だっただろうな、色々あったんだろうなとか、自分たちも色々あったなとか、ここ数年の現実と重ね合わせて観てたから最初からすでに泣きそうで。

 

 

で、どこだったかな、最初の一連、みんなでのやり取りが終わって、とおるの長いモノローグあたりで、グッときたなと思う。そっから、みんなの悔しいとか、やるせないとか、やるしかない、でも100%ではどうせできない、もっとできたのに、みたいな葛藤とか。

微妙な気持ちの探り合いとか。

みんなやりたいと思ってるのに、誰も言い出せずにどんどん全体の士気が落ちていっちゃう感じとか。別に誰のせいでもない、でも勝手に「誰も返事しないってそういうこと」とか自己完結しちゃってみんなして閉じこもっていっちゃう雰囲気がすごくリアルで。2人、3人のシーンの微妙〜〜〜〜な空気感がとっても良かった。

先輩の感じもめちゃ好きだったな、あーいう人いるよねって感じで。ひな姉の空気読めなさ、私は個人的に大好きです。ああいう人、必要。絶対。

 

 

 

で、後半。の、出だしが私の知ってる2人だったから、「あ、いつもの2人!」て思った。ノリがいつも通りすぎてちょっと笑ってしまった。でもいろはちゃんにあんな優しいこと言ってるしんしんを私は見たことない。が、いろはちゃんが書いているのでそういう一面もあるのでしょうね、きっと。

 

 

いつも通りの劇団員、なんだろうけど、それを舞台上で見せるってたぶん難しいことで。だって台本あるとはいえ、素で舞台立つ方が緊張するじゃん?良いカッコしたいとか思う人もいるじゃん?それができるのが、彼ら彼女らの強さであり、お互いの、そして観客に対しての信頼感のような気がした。

 

 

でね。私、時々思うの。舞台上で見せる感情の方が、ある意味「生身の本物」なんじゃないかって。

だって日常で、感情100%出すことなんてそうない。遠慮したり、オブラートに包んだり、見なかったり、誤魔化したり。

最後にかけてそれが如実に出ていたというか。文字通り、舞台上で感情が100%で生きてた、というか。

でね、書きながら今思った。これは想像でしかないんだけど。

前半の劇の劇団員たちも、それぞれの個性を反映していると仮定するならば。彼らはきっと優しくて、気を遣って、自信がなくて、諦めかけていたけれど。

めんつゆコーラが同じ状況なら、きっといろはちゃんが「いややろーよ!」って言うのかなって思う。それを言う人が不在だったから、あの脚本は完成しなかったのかな、なんて。

 

 

自分の大学生時代、自分にとってのコロナ禍を重ねつつ、めんつゆコーラの青春と、大学生活最後の1ページを見せてもらって、一緒に体感したような気持ちになる、とっても柔らかくてキラキラした作品だったなと思います。アイドルって、自分の生き様と個性を商品にして、作品にするじゃない?そんな感じ。

 

 

 

「一人一人が輝く」。私の理想だなって思う。

 

 

 

 

 

 

好きってなんだ⁉︎⁉︎part.2

きっと、前と同じことを多分書いている。

結論は、結局のところ同じなのだと思う。

 

けれど、書きたいと思った時に書いておかないと、私はその時その瞬間の気持ちを忘れてしまうから。一瞬一瞬動いていく感情を、カメラのように映しとれたらどんなに良いだろうかと思うのだけれど、そう上手くはいかない。

 

ここ最近、なぜかほうぼうで恋愛話を聞くことが多い。これまで触れてこなかった分まで取り戻しているみたいに。色んな形の恋。愛。きっと、この間読んだ本が引き寄せているのだと思う。

 

 

好きに限らず、だけれど。

 

 

便宜上一つの言葉でくくってはいるけれど、その思いの色も形も、全然違う。共感できる部分、できない部分、色々ある。手触り、色。

 

 

恋と愛は、違うらしい。恋と友情も、違うらしい。でも、そのどれもが「好き」らしい。カレーが好き、テニスが好き、仕事が好き、歌が好き、赤色が好き、親が好き、友達が好き、恋人が好き。全部同じ、好き。不思議。

 

 

でも、人が相手か、そうでないかは、やっぱり違う。

 

 

みんなが、みんなを好きで。好きが溢れていっぱいで。それで十分なんじゃないかなって。

ただそれだけの、綺麗な世界が良いなって、思うのに。どうにもそれは難しいらしい。好きが返ってくるかは、分からない。好きが返ったとして、同じものである可能性はほぼゼロだ。一人一人、価値観が違うように。誰かが誰かを好きで、その誰かも誰かを好きで、でもその好きは同じものとは限らなくて。例えそれを同じ「恋」だとか「友情」だとか「親愛」だとかいう同じ言葉で呼んだとしても、やっぱり色も形も手触りも違っていて。すれ違っている人も、パズルのように組み上げている人もいて。似た色をしている人もいて。

 

単純な言葉で片付けたくない。片付けてほしくない。自分が持つ、自分だけの「好き」を、捨てないで、雑にも扱わないで、大事にして欲しい。そんな気持ち。色も形も手触りも。もちろん相手によって変わっていく。けれど私は私の周りを、私が好きで私を好きな人だけの、綺麗な「好き」で満たしていきたいなと、改めて思う。

 

 

 

「国民性」とはなんなのか。〜テセウスの船を切り口に〜

 

テセウスの船」というパラドックスを、知っているだろうか。

 

テセウスの船」という船がある。時を経て、船はどんどん老朽化していき、故障の度に部品を入れ替え、ついに全ての部品が交換されてしまった。

元のパーツが一つもないこの船は、果たして元の「テセウスの船」だと言えるのだろうか。テセウスの船をテセウスの船たらしてめているものは、一体何なのだろうか。

 

先日、ある研修を聴講した。テーマは「多文化共生」。国際交流から留学、移民の受け入れ等に関する内容で、少子高齢化や障害・性的少数者も絡めて話をされたので講義自体は大変面白かったのだが、その中で受講生からこんな感想があった。

「人口減少・少子高齢化で共生にばかり邁進することで、日本人が消滅するのではという危機感がある。日本人の暮らし向きがよくなるための手段として、人口(生産年齢)減少してもDX化等により社会が成立する様な施策により、日本人が排他的でない誇りを取り戻した先に共生を実現したい。」

(チャットで質問ができる方式だったため、原文そのままである。)

 

…今まで何を聞いてきたんや!?と言いたくなる感想なのだが、まあそれは一旦置いておいて。

 

日本人が消滅するのでは、という危機感。この言葉が指す「日本人」とは、一体何なのだろうか。一体「何が」消滅したら困るのか、「何が」日本人を日本人をたらしめているのか。

 

冒頭に戻ろう。

 

日本生まれ、日本育ち、日本国籍黄色人種がいる。時を経て、そういった人々がどんどん減っていき、労働力が足りないので代わりに外から来た移民や難民、外国人たちに日本国籍を与え、ついに全ての人が外国から来た人となった。この人たちは日本人だと言えるのか。この国は日本だと言えるのか。

 

この場合、テセウスの船と違うところが二つある。一つ目は、日本人であれ外国人であれ、パーツは常に入れ替わっているという点。そして二つ目は、パーツに意思があるという点。

 

私の、テセウスの船に対する回答はこうだ。

 

テセウスの船をテセウスの船たらしめているものは、周りの目である。船は船で意思がないので、乗る人が、見る人が、それをテセウスの船だと認識しているならばそれはテセウスの船であると言える。たとえ部品が変わっていようと、見た目が変わっていようと。仏像なんかを想像すると分かりやすいのではないだろうか。たとえ部品を変えたとしても、全て当時のものでなくなってしまったとしても。それを仏像だと信じ、祈り、助けを乞う人がいる限り、それは変わらず仏像であり続ける。

 

日本人が消滅することなど、国家が消滅しない限りはあり得ないと私は思う。確かに外国から来る人が増えれば、文化は摩擦で大きく変わっていくのかもしれない。だがそれは外国から人が来ずと起きること。日本人が今も昔も全く同じ精神を持っているかという点については甚だ疑問だ。変化の傾きが大きくはなるだろうが…。それもまた面白いこと。

 

どんな見た目であろうと、どんな背景を持っていようと。例え国籍を持っていなくても。周りが、そして本人が同じ日本人だと思えば日本人になるし、異国の者と思えばそうなる。それが良いことかどうかはこれまた疑問だが。

 

ということは。

 

人種や国籍に関係なく、「共に暮らす仲間」だと互いに認識すればそうなるわけで。結局は目に見えぬ人たちの集合体なんて、中身のない脆いものなのではないかと、私なんかは思うのですが、いかがでしょう。

 

これもまた狭いコミュニティに逆戻りする「ムラ」意識なのかもしれないと、思いつつ。

 

さあ、皆様はどう考えますか。聞いてみたいような、そうでもないような。