くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「国民性」とはなんなのか。〜テセウスの船を切り口に〜

 

テセウスの船」というパラドックスを、知っているだろうか。

 

テセウスの船」という船がある。時を経て、船はどんどん老朽化していき、故障の度に部品を入れ替え、ついに全ての部品が交換されてしまった。

元のパーツが一つもないこの船は、果たして元の「テセウスの船」だと言えるのだろうか。テセウスの船をテセウスの船たらしてめているものは、一体何なのだろうか。

 

先日、ある研修を聴講した。テーマは「多文化共生」。国際交流から留学、移民の受け入れ等に関する内容で、少子高齢化や障害・性的少数者も絡めて話をされたので講義自体は大変面白かったのだが、その中で受講生からこんな感想があった。

「人口減少・少子高齢化で共生にばかり邁進することで、日本人が消滅するのではという危機感がある。日本人の暮らし向きがよくなるための手段として、人口(生産年齢)減少してもDX化等により社会が成立する様な施策により、日本人が排他的でない誇りを取り戻した先に共生を実現したい。」

(チャットで質問ができる方式だったため、原文そのままである。)

 

…今まで何を聞いてきたんや!?と言いたくなる感想なのだが、まあそれは一旦置いておいて。

 

日本人が消滅するのでは、という危機感。この言葉が指す「日本人」とは、一体何なのだろうか。一体「何が」消滅したら困るのか、「何が」日本人を日本人をたらしめているのか。

 

冒頭に戻ろう。

 

日本生まれ、日本育ち、日本国籍黄色人種がいる。時を経て、そういった人々がどんどん減っていき、労働力が足りないので代わりに外から来た移民や難民、外国人たちに日本国籍を与え、ついに全ての人が外国から来た人となった。この人たちは日本人だと言えるのか。この国は日本だと言えるのか。

 

この場合、テセウスの船と違うところが二つある。一つ目は、日本人であれ外国人であれ、パーツは常に入れ替わっているという点。そして二つ目は、パーツに意思があるという点。

 

私の、テセウスの船に対する回答はこうだ。

 

テセウスの船をテセウスの船たらしめているものは、周りの目である。船は船で意思がないので、乗る人が、見る人が、それをテセウスの船だと認識しているならばそれはテセウスの船であると言える。たとえ部品が変わっていようと、見た目が変わっていようと。仏像なんかを想像すると分かりやすいのではないだろうか。たとえ部品を変えたとしても、全て当時のものでなくなってしまったとしても。それを仏像だと信じ、祈り、助けを乞う人がいる限り、それは変わらず仏像であり続ける。

 

日本人が消滅することなど、国家が消滅しない限りはあり得ないと私は思う。確かに外国から来る人が増えれば、文化は摩擦で大きく変わっていくのかもしれない。だがそれは外国から人が来ずと起きること。日本人が今も昔も全く同じ精神を持っているかという点については甚だ疑問だ。変化の傾きが大きくはなるだろうが…。それもまた面白いこと。

 

どんな見た目であろうと、どんな背景を持っていようと。例え国籍を持っていなくても。周りが、そして本人が同じ日本人だと思えば日本人になるし、異国の者と思えばそうなる。それが良いことかどうかはこれまた疑問だが。

 

ということは。

 

人種や国籍に関係なく、「共に暮らす仲間」だと互いに認識すればそうなるわけで。結局は目に見えぬ人たちの集合体なんて、中身のない脆いものなのではないかと、私なんかは思うのですが、いかがでしょう。

 

これもまた狭いコミュニティに逆戻りする「ムラ」意識なのかもしれないと、思いつつ。

 

さあ、皆様はどう考えますか。聞いてみたいような、そうでもないような。