くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「デート代は男が奢るべき」という幻説について

 

「デート代は男が奢るべきか」なんて。んなもん人それぞれだろ好きにしろ。

 

 

こんなろくでもない問いが度々話題に上がること自体、Twitterの治安はどうかしているなと思うのだけれど、せっかくなので一言だけで片付けずに乗っかってみようと思う。まあ、ろくでもない話題だとか言いながらも、こうして面白がって持論を展開しようと試みる私のような人間がいる時点で、この手の論争はやっぱりいつまでも話題に上がり続けるのだろう。

 

 

この問いは、問いそのものがすでに仮定条件や「こうあるべき」を内包し、そのうえでさらに「こうあるべき」を問うている、という構造である。ここを突っ込むと間違いなく本筋からはずれていくのだが、気にかかる部分ではあるので書いておきたい。

 

 

正直なところ、私はデートと遊びの違いすらあまり理解していないので、デートの定義から問いたいところ。おそらく、人によって異なっているだろう。デートを「恋人と行くもの」とするか「異性と行くもの」とするか「二人で出かけるもの」とするか「付き合ってなくても両想いならデート」なのか「どちらか片方でも気になっていればデート」なのか、その場合気になっているのはどちら側なのか等々。パッと思いつくだけでも様々なパターンがある上に、それをどのラインに持ってくるかで、この問いの結論は変わってくる。論争する人同士で問いが共有されていないということは、もうすでにこの時点で問いが破綻しているのだ。

とはいえ、さすがにここでは終われないので、仮にデートを「意中の相手と出かけること」だとする。すると「デート代は男が奢るべき」という主張には、先ほどの仮定に加えて「デートする場合、その片方が男である」という仮定の条件が含まれていることが分かる。そのうえでの問いだということだ。男同士、女同士でデートに行く、というケースはここでは想定されていない。デートを「異性と二人で出かけること」とするなら言わずもがな、端から同性同士、という想定は弾かれている。「一般的にはそうだろう」と言われてしまえばそれまでだが、その一般的と思われる、しかし100%当てはまるわけではない仮定条件を、この問いは飲み込んで成立している事実を、私は無視して進めることができない。

そういう、「デートは異性と行くものだ」という当たり前を無意識下で受け入れている人たちの間でのみ成立しうる問いなのだ、これは。

 

 

でもまあやっぱりここは本筋ではないので、この辺りでおしまいにして、やっと本題。

 

 

他人に「○○すべき」を強要する人は、大概自分も「○○すべき」に縛られているように思う。他人にだけ強要する人もいないことはないが、それは人間性に問題があるとしか思えないのでここでは捨て置く。「男は○○すべき」「女は○○すべき」という言葉は、相手だけでなく自分をもその属性に縛り付けてしまう。男は奢るべき、というその言葉は、「女は働かず家庭に入るべき」という、実態はともかくとして、そろそろ廃れつつある(そうであって欲しいと切に願う)言説と何ら変わりがない。

例えば、デート代を男が出すべき理由として挙がるのが「女の方がお金と時間をかけてデートの準備をしているから」というものだ。これを理由に挙げるということは、つまり「女は男よりお金と時間をかけてデートの準備をしている」ことが前提となっている。

けれど、それは本当に事実だと言えるのだろうか。少なくとも私の周りには、いちいちデートの度にエステだのネイルだの美容室だのに行っている友人はいないし、恋人が変わったときに服や下着を買い替える人なんてお目にかかったことがない。デートの前に新しい服を買った人はいたが、それだってデート以外の日にも着るもので、ただのきっかけに過ぎない。おおよそこの「準備」というのはほとんどが見た目にかかるものだと考えられるのだが、自分の見た目にかけるお金というのはあくまで自分に投資したお金だ。それが例え相手に好かれるため、相手を喜ばせるためであったとしても、別れた時に自分に残る。対して食事代や交通費は自分には残らない。相手とその時間を楽しく過ごすために使うお金であり、それ以上でも以下でもない。それに、自分の見た目にかけるお金は人によって全然違う。そしてまた、その理由も。恋人は関係なく自分のために見た目のため多額のお金を使う人もいれば、その逆もしかりだ。

にも拘わらず「女の方がお金と時間をかけてデートの準備をしている」ことを当然のように理由に出すというのは、要するにそれがごくごく一般的なことだと当人は認識しているわけで、それはつまり「女はお金と時間をかけてデートの準備をすべき」という主張と、紙一重ではないだろうか。もちろんそんなことを当人は主張していないし、主張する気もないとは思う。誰かを攻撃する意図はないだろうし、「デートのためにお金と時間をかけて準備を頑張る女たち」を連帯しての発言なのだろう。けれどその前提を自分の中に持っていないと、出てきようがない理由なのだ。

要するに自分以外の「女」も当然デートの時にはそういうことをしていて、だから男より金がかかるから「男が払うべき」となる。ありもしない仮定の「女像」を連帯しようとする。

それが私にはいびつに思えるのだ。そう、「男が払うべき」と考える人が言う「理由」には、仮定があまりに多すぎるのだ。それはあくまで「私はあなたとのデートにこれだけ金をかけたのだから、食事代はあなたが出して」という個人の主張にすぎない。「男だから」奢るわけでも、「女だから」準備にお金と時間をかけるわけでもない。目の前の相手とどう関係を築きたいか。そのために自分はどうしたいか、どのように、どこまで時間を、お金をかけるか。それだけだ。そこが一致しないのであれば、相手を代えるしか方法はない。相手を変えることも、その権利もないのだから。まして、他人同士の関係性に「男はこうすべき」「女はああすべき」などと口を出すのはナンセンスだ。

 

 

だからやっぱり結論、人それぞれだろ好きにしろ、としか言えない。長々と書いてはみたけれど、たいして意味を持たない言葉遊びだったかもしれない。

 

 

余談。

 

 

「奢る」「奢られる」論争において、もう一つよく聞く主張がある。「一般的に男の方が金があるから男が出すべき」というやつ。所得が多い人が奢るべき、や多めに出すべきという言葉には、諸手を挙げて賛成はしないまでも、確かに一定の合理性があると思う。「多い」側に合わせたそれなりの店をチョイスした場合に「少ない」側がその金額は出せない、ということは考えられる。(これだって、すでに仮定の話が組み込まれているので一概に「所得の多い方が出すべき」とも言えない。)けれど、だから平均して所得の多い男が出すべき、というのは明らかに飛躍だ。それは実際には男であるケースが多かったとしても「男」ではなくあくまで「所得の多い方が出すべき」という主張にしかならない。現状明らかに男性のほうが平均所得が多いというのは、別の問題があるとは思うが。

 

 

もう一つ、さらに余談を。

 

 

さっき書いた通り、「女の、お金と時間をかけたデートの準備」というのは大方の場合見た目のことを指していると思われる。そして、この手の話題ではよく「ブスには奢らない」という趣旨の反論…とも言えないような暴言が見受けられる。あわせると「お金と時間をかけたブス」には奢らず「お金と時間をかけない美人」には奢る、ということだ。ブスという言葉はともかくとして、重要なのは「自分が何をかけたか」ではなく「相手に何が提供できるか」なのだろう。ただそれは、決して見た目に限った話ではないはずなのだが、まずもって「見た目」に飛びつくあたりこの両者は同類で、男側からも女側からも、女性に対するルッキズムはまだまだ根強いのだろうと思う。(消えるどころか、最近は男性もルッキズムに浸食されていっているようにさえ思う。)その意味でも、わざわざ自分の方から、自分の見た目に呪いをかける必要なんかないんじゃないか、と思うのだ。どうせ自分磨きをするなら、ポジティブに。他の誰でもない、自分が自分を好きになれたならそれで良い。そしてそれは結局、造形ではなく自分の心の持ちように帰結していくのだ。他人からどんなに造形が美しいと思われようと、自分でそう思えなければ何の意味もないのだから。

 

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