くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

他人を知る、自分を知る。〜体癖論から〜

論理的に考えるのが、あまり得意ではない。

 

 

…と、いうことに気がついたのは、大学を卒業してからだ。

 

 

自分で自分を論理的な人間だと思い、約20年間を生きてきた。それは、論理的な人間でいたいと思い続けた自分の、努力の賜物なのだと思うから、後悔はしていない。けれど、本能的に、ごく自然に論理的な人間かというと、違う。本能的に論理的というのもいささかおかしな表現ではあるが、そうとしか思えない人間が世の中にはいるのだ。私のように、論理的に考えるべき場だと判断した時だけガシャンとスイッチを入れている人間からすると、日々そんなに論理的で頭がすり減らないのかと不思議に思うのだが、どうもすり減らないらしい。だから、本能的に、論理的。羨ましい限りである。

 

 

体癖論、というものをご存知だろうか。

 

 

私はこれを、例のMBTIやらA3!やらを布教してくれた友人から教わった。

(↓その記事がこちら。)

oha-k-arin.hatenablog.com

 

知らない世界を教えてくれる人というのは、大変貴重な存在である。だから私も、自分が面白いと感じたものは、できるだけこんな風に紹介をしたいと思っている。いつ、誰の心の琴線に触れるか分からないし、それがもしかしたら、いつか、何かの転機になるのかもしれないから。何にせよ、出会いの間口は広い方が良い。

 

 

 

話は戻り、体癖論である。めちゃくちゃざっくり言うと、身体のクセや動きのクセから、身体の構造、ひいては感受性を分析しようという試みである。感受性って何?と思ったそこのあなた。私も分かりません。とりあえず性格、思考癖だと思ってください。たぶん違うんだけど、とりあえずね。きちんと知りたい人は、ぜひ提唱者である野口晴哉さんの著作「体癖」を読んでみてください。難しいらしいです。ちなみに私は読んでいません。要するに私は体癖論ビギナー。理屈について知りたい方は、他を当たってください。私のブログに正確性はありません。

 

 

友達から聞いたは良いが、なんせ分からん。し、当初はそこまで興味があったわけでもない。なんだけど、激安価格で有識者に診断してもらえる機会をたまたま発見しまして。なんかオモロそう、という直感だけを頼りに、申し込みをし、診断してもらうに至った訳です。

 

 

でね。

 

 

まあ、なんとなく合ってそうだなとも思うけど、私は身体の癖が性格に現れるっていう、その仕組み自体が分からないから、それが本当に合ってるかどうかなんて分かりっこないんですよ。面白いのはその後。

 

「自分にない体癖の人が得意な動きを練習してできるようになれば、他の体癖の人の考えも分かるようになる」

 

 

…なるほどね‼︎そう来るんだ‼︎

 

 

つまり、性格が身体に現れるとか、だから身体で診断できるとか、そういうことではなくて、そもそも身体そのものが人の考え方を形作っているという。だから知識を詰め込むとか、色んな人の考え方を知るとか、頭で理解しようとするんじゃなくて、身体で他人を理解する。

めっっっっちゃ面白くない⁇その発想なかったわ。

お芝居でもさ、「この役はこういう姿勢、動きするかも、こういう癖があるかも」とかって役作りもできるじゃない。それって、見た目だけ整えてるとか形だけってわけじゃなくて、自分の普段の動きと違う動きを体に染み込ませることで、違う人格が立ち上がってくるって考えると、また違う世界が見えて来るというか。

 

 

私に関して言うと、一緒に診断を受けた、ある程度体癖の知識がある人は、話をしないうちに「1種か2種っぽいよね」と口を揃えて言うんです。何かっていうと、理屈か空想。どちらも頭の中で完結して行動しない。それって、私がある程度意識して表に出そうとしてた部分。で、実際診断すると、1種2種+3種8種9種。(あ、全部で10種類あるんですけどね、大体みんな3つくらいあるんですって。だから、全く同じ人はいない。分析であって分類じゃないのです。)自分がそう見せようとしてきた部分って、自覚なく身体の癖にも出て、見た目にも分かりやすくなっていくのかしら、なんて思って。面白いなぁ。

 

 

最後に、わいわいとみんなでお喋りする時間がありまして。お弟子さんたちはめちゃくちゃその体癖の先生を慕っていて、先生から言われた自分の感受性の課題を克服しようとしているんだそうで。そんな話を聞いたから、ふと尋ねてみたくなりました。たまたまその先生に話を振られたので、思い切って聞いてみた。

 

 

「私の課題ってなんですか?」

 

 

…会って数時間の人に。ほとんど会話もしていない人に、そんな問いかけ。

 

 

ちょっと試してみたい気持ちもありました。一体どんな答えが返ってくるのか。今日会ったばかりのこの人に、私の身体はどう映るのか。知るか!ってバッサリ切られるかと思っていたら、とっても丁寧に答えてくださいました。

 

 

「今できることだけに捉われないっていうことが課題。今知らない自分に対してもっとオープンになっていけるかどうか。それは色んな出会いとか色んな人から引き出されるから、そこに対してもっとオープンマインドで、分からない自分を楽しんだ方が良い。頭で考えないで、それをもっと味わうのが課題。」

 

 

どこをどう見て、どういう理屈でその言葉が出たのか私には全く分からないし、それを知りたいとも思いません。ただ、今の私に必要な言葉であることは確か。私は体癖どうこうではなく、これを聞くために今日ここへ来たのかもしれない。そんな風に思いました。

 

 

きっとそれは、誰にとっても同じように重要なこと。

 

 

だけど、それを私自身が課題に思っているからこそ、こうして人の口を通して聞けたのだと思います。

 

 

論理的じゃない「かもしれない」。

意外と分かりにくい「かもしれない」。

几帳面なところがある「かもしれない」。

 

 

自分のことなんて分からない。考えたって分からない。人を通して自分を見る、だけじゃない。人にぶつかって見える自分がいる「かもしれない」。

 

 

どうせいつかは死ぬんだから。知らない他人も、知らない世界も、知らない自分も。たくさん知って、たくさん経験して、死にたいよね。そう言い聞かせてみても、頭はごちゃごちゃ考えちゃうんだけど。それもまた、自分ってことで。面白いよね、人間て。

 

 

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