くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「幸せの青い鳥」を終えて。

劇団ミュージカルパーク定期発表会「幸せの青い鳥」、無事終演いたしました。ご来場いただいた皆様、公演にあたってご協力いただいた皆様、誠にありがとうございました。ご自身にとっての「青い鳥」について、ほんの少し、思いを巡らせていただけたなら幸いです。

 

 

さて、ここからは完全なる私の独り言であり、一緒に公演を作ってきた皆さんに宛てた私信であったりもします。お客様にとっては、観ていただいた結果が全てで、思うことも経過も、作品の中で伝わっていなければ、それはないも同然。だから、誰でも見られる形で残すのかどうか、少し迷ったのですが。口にするとさらりと流れてしまうたくさんの感謝と、今の私の胸の内をきちんと記しておきたく、ブログにアップすることにします。

 

 

まず先に、初めて挑戦した振付のことを少し。

 

 

今回、冒頭のクリスマスダンス、思い出の国へ、最終決戦の一部分を振付させてもらいました。この振りはこの人は踊れそうか、全員でこの動きはできそうか、立ち位置はこれでいいか、等々…。いろんなことを、これまで振付や指導をされているゆかちゃん、ちーちゃん、かおりさんに相談しながら、なんとか形にできました。説明力がないので、振り落としにも時間がかかること、かかること。初回の振り落としの日は毎回微妙に憂鬱で、終わった後はドッと疲れる。これを何年もずーっとされているお三方は本当にすごいなと、自分でやってみて改めて、尊敬と感謝の思いが湧いてきました。

そして、出演者の皆さんに心からの感謝を。頭でイメージしても思い通りにいくとは限らなくて、落としてから振りが変わって覚えなおしてもらうことも何度かあった。立ち位置に対しても振りに対しても、色々思うことはあったかもしれないけど。

私が思い描いた以上の絵が舞台上には広がっていて、それは当然、出ている皆さんの力でしかなくて。私の拙い説明、振りを、素敵なものに仕上げていただいて、本当にありがとうございます。

 

 

 

そしてここからは、「瞳」という役について。

 

 

 

台本を最初にもらった時、一番やりたいと思ったのが瞳でした。人によって見え方が違う存在。相手を映す存在。難しそうで、でもやりがいも大きそうな役。完全に一から作っていける役。そして何より、私がごくごく短い26年の人生の中でほんのわずかずつ学び取ってきて、今なお意識して学んでいる最中の、でも忘れがちで、大事にしたいことを象徴する存在のように思ったから。

 

 

だから、配役が決まった時は本当に嬉しかった。でも同時に、プレッシャーでもありました。瞳をやりたい人が他にもいたのを知っていたし、知っている以上に、やりたい人はたくさんいただろうなと思うから。台本の時点でやりたい人が多い魅力的なキャラクターである以上、演じた時にお客さんからして「魅力的だな」「つい見てしまうな」というところまで持っていくのが当然の最低ラインだろうなと思ったから。瞳の作り方次第では、この素敵なお話の中の大事なメッセージが、全く伝わらなくなってしまうことが分かったから。それでも、任せていただいたからには「かほにして良かった」と全員に納得してもらえるようにしたい、と思いました。

私は本当に、歴だけは長くて偉そうにアドバイスしたりもしているけれど、成長速度は亀のように遅くて、話の根幹に関わるような役をした回数は、実はそんなに多くありません。だから、他だったらもう10年にもなって「ここでこの子は頭打ち」となってもおかしくないところ、こんな風に今でも挑戦の場を与えていただけること、本当に感謝しかありません。

 

 

そしてもう一つ。「支える側」でいないと、というのも、最初はもう一つのプレッシャーでした。これは勝手に背負っていただけなのですが。

以前発表会で主演をさせてもらった時、明らかに私は「挑戦者」の側で、みんなに助けてもらって、支えてもらって、やっとの状態でした。本当はもっと引っ張らなきゃいけなかったと今でもずっと後悔しているのですが、あの時は自分のことだけを考えていてもまだ許された。

でも今回、一番重いものを背負う挑戦者は間違いなく主演の2人。私自身も挑戦者で、でも間違っても私が2人の足を引っ張るわけにはいかないから、2人が安心して自分のお芝居ができるように。もしできることなら、私がたくさんの人に支えてもらったように、ほんの少しでも2人の荷物が軽くなるように、高く飛べるように。そんなことを、ぼんやりと思っていました。まあそんな気を回さなくても、勝手にぐんぐん伸びていく2人だったので、こちらのプレッシャーはすぐ消えました。むしろ、とてもたくさん刺激をもらっていて。足は引っ張らずにすんだかな。

 

 

自分の役作りについての紆余曲折と結果は、ご覧いただいてきた通り。ただ、やっていく中ですごく面白いなと思ったことが。

 

 

最初、瞳の本当の正体が分かるシーンから逆算して、どのシーンでどこまで悪役感を出すか、ということを迷っていました。でも合宿の時に、一つ転機が。

二日間の2人の頑張りを見ていた私は、正直とても気持ちが穏やかというか、2人を応援する気持ちと「ここまできたんだな」と嬉しく思う、その気持ちのまま通しに挑んでしまいました。結局その気持ちは最後までうまく戻せず、最終決戦前もとてもやさしい気持ちのままでした。終わって「優しすぎたかな」と反省していると、とても良かったよと言われました。おや?おかしいな??

それを機に、あんまり「悪役っぽさ」を意識しないようにしました。それまでなんとなく自分の中でブロック分けして、悪役らしく見せたい時はこういう感じ、優しく見せたい時はこういう感じ、この人との時はこうしてこのセリフの時はこういう顔で…と、細かく切り分けて組み立てようとしていた全てを、一度全部取っ払って、「瞳の根っこはこういう思想のこういうキャラクターだ」ということだけを念頭に置くようにしてみました。

すると、そのあたりを境に、芝居が良くなったらしい。なぜかは分からない。瞳(というか私だけど)は最初から最後までひたすら「二人可愛い!大好き!頑張れ!」としか思っていなくて、意地悪な気持ちも怖がらせるつもりも一切ないのに、なぜか怖いと言われる複雑怪奇。女王様も猫も大好きとしか思っていないのに、苦手と言われ避けられる。なぜ??あれ、これってまさに瞳の心境?ちょっとしたアハ体験でした。

 

 

でね、なんでこんな話をしたかというと。

 

 

瞳の「相手を映す」って、その瞬間瞳の芝居をする私自身にも同じことが言えるんだなって思ったんです。私が内心「瞳をこういう役にしよう、こう見せよう」って考えて、行動したとしても、そう見えなかったら意味がない。それは間違いなくそうなんだけど、「そう見える」かどうかも、私が何をするかではなくて、見ている人の目に委ねられているんだなって。もちろんだからといって何をしても良いわけではなくて、意図があるならそう受け取ってもらえるような稽古や工夫は大前提として必要だけど、最終的には「どう見えるか」「どう見せるか」なんて考えていてもあんまり意味はなくて。私は私が思う瞳として、素直に2人と、そして舞台上のみんなと一瞬一瞬向き合ってみることが、瞳を演じるってことなんだろうなと。私にできたことはそれだけで。

 

 

だからね。どのシーンも同じ瞳に見えていたり、瞳の中に「たつみかほ」が見え隠れしたりしていたなら、それは単に私の力量不足なんだけど。

 

 

もしも、瞳がシーンによって違うように見えていたなら。悪役に見えたり良い人に見えたりしていたのならば。

 

 

それは、瞳と対峙しているチルチル・ミチルや、魔法使い、夜の女王、精霊たち、そしてその場にいる出演者全員が、瞳をそれぞれに「このシーンの瞳はこういう存在だ」と認識してそう扱ってくれたから。音や照明やストーリー展開で、「こういう存在だ」として分かりやすく示してくれたから。そして、その全部をお客さんが拾いあげて、瞳を各シーンごとに「こういう存在」として「見て」くれたからなのです。私だけでは絶対に成り立たない。衣装も変えていない、笑顔ベースなことも変わらない、瞳(私)自身の2人に対する胸の内も、反応はあっても2人のことが大好きだというベースは変わりません。その中で違うように見えたとすれば、間違いなく見ている人が、私に、そのシーンにあるべき瞳の姿を映してくれていたからだと思うのです。

 

 

くどくどと長くなりましたが、だから私の力はほとんどなくて、関わったぜーーーーーーんぶの方が作り上げてくれた「瞳」なんじゃないかなって、私は思っているのです。私自身は、難しいことは全部、一緒にシーンを作る皆さんと受け取るお客さんにお任せして、楽しくのびのびとやらせていただきました。本当に本当に、ありがとうございます。

 

 

次回は、さらにレベルアップできるように。引き続き精進していきたいなと思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。