くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

性と、社会。事実と思い込みの複雑さ。

7月12日。

たまたまこの日の朝からとつとつと書き始めていたのがこの記事なのだけれど、あまりにタイムリーすぎる悲しいニュースに、その日の夕方愕然としたのを覚えている。

 

 

ryuchellの訃報。

 

 

色んな意味でたくさんの影響を世の中に与えた人で、きっとこの人の自殺は、今後色を変え、様々な形で世の中に影響を与えるのだろうと思う。それが、本人の望んでいなかった形で作用する可能性も秘めながら。

ご冥福を、お祈りいたします。

自殺した方に、そういう言い方をするのか分からないけれど。

 

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私は、ちょうど「LGBT」という言葉が(良くも悪くも)流行り出すちょうどその転換期辺りが、自身の「性」と向き合う時期と重なっていた。

大学で社会学を専攻していたこともあり、様々な角度から「性」について調べ、考える機会がたくさんあった。

 

 

だからといってそれが十分だとは全く思わないし、知らないことは山ほどある。それでも、人並み以上には知っていることがあるし、自分なりの(若干偏った)思想もそれなりには育っている。

 

 

 

まずもって、LGBTという言葉があまり好きではない。伝わりやすさを優先して使うことはあるけれど、基本的に「セクシュアルマイノリティ」の呼称を使うことが多い。

これは、LGBTという言葉が「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」という4つの性の略称であり、その4つの性しか表していないからだ。

後ろにQ(クィア、クエスチョナー等)や+(その他)をつける表記もあるけれど、それにしたって、4つに当てはまらない人は「その他」でくくられてしまう。性別違和のない異性愛者以外の「セクシュアルマイノリティ(性的少数者)」の中に、さらにマジョリティ(LGBT)とマイノリティ(それ以外)の壁が生まれ、分断されかねない言葉だなと、常々思っている。

 

 

 

「SOGI」という言葉がある。LGBTのように、セクシュアルマイノリティに関する別々の呼称の総称ではなく、性を定義する「性的指向(Sexual Orientation)」「性自認(Gender Identity)」という2つの指標の略称である。

 

 

 

性的指向はどんな性別を好きになるか、性自認は自分自身をどういう性だと認識しているか、を示している。つまり、SOGIはセクシュアルマイノリティにのみ関連する言葉ではなく、全てのセクシュアリティに関連づく言葉なのである。加えて「性表現(Gender Expression)」や「身体的性的特徴(Sex Characteristics)」、「恋愛的指向(Romantic Orientation)」等でも、自身の性を表すことができる。また、これらは全て「男か女か」で一概に表現できるものでもない。両方、あるいはどちらもない、中間等々。性というのは、普段何気なく認識しているものよりも非常に複雑で、多様なのだ。

 

 

私がここまで性にこだわるのは、性別的役割や性別につきまとうイメージに、うまく馴染めずにいるから。

 

 

なぜ、女の子は足を組んではいけないのだろう。

祖母に何気なく言われたたったのひと言が、私の中には今でもずっと残っている。

 

 

今なら分かる。もしも私が男の子だったら、「行儀が悪いから足を組むな」と祖母は言っただろう。たまたま私が女の子だったからそんな言い方をしただけで、何の他意もなかったと思う。ただ、当時の私にとっては、その言い回しがとても不思議だったのだ。

 

 

不思議だっただけで嫌な思いをしたことはないから、性別違和ではないのだと思う。実際、いわゆる「女の子向けアニメ」が私は大好きだったし、たいていは「女の子らしい」遊びをしていた。ただ、不思議だな、と思うことが多くて。その度に聞き返しては、困らせたり、怒らせたりを繰り返していた。

 

 

大学に入り社会学を学ぶ中で、本格的にLGBTセクシュアルマイノリティといった言葉に触れる機会も増えた。その中で、今でも覚えている友人とのやり取りがある。全くテーマの決まっていない、しいて言うなら「大学での学び方」のような演習の授業で、グループごとに討議をしていた時、何がきっかけだったかこんな話をしたのだ。(一応断っておくと、ただの雑談というわけではなく「世の中の疑問を出してみよう」みたいな話の流れだったと思う。討議の一環として話していたはず。)

 

 

「そもそもさ、好きな人と付き合う相手と性行為する相手と結婚する相手を一緒にする必要ってある?」

 

 

自分で言い出したのか、誰かが言い出したのかはさっぱり覚えていない。でも私はこの時のやり取りがものすごく腑に落ちた。当時恋愛というものがよく分からなかった私は、きっとこれを機に卒論で「性」をテーマにすることになったのだろう。

 

 

……やっと、当初書こうと思っていたところまでたどり着いた。けれど、もう彼(彼女?)はいないから、最初に書こうと思っていたようには書けなくなってしまった。

余談だが、毎度文章を書くと「その人」を指す、性別を問わない言葉はないものかといつも頭を抱えてしまう。というか、「彼」が男を指してそこに「女」をつけると女を指すということ自体、どうなのかと思ってしまう。俳優女優しかり、その他もたくさん。そういう意味では、あえて彼を使うのも一つの手かもしれないな。

 

 

なぜ彼は「父」でなくてはならなかったのだろう。

なぜ彼はかわいい恰好をすることを否定されたのだろう。

なぜ彼は離婚を非難されたのだろう。

 

 

…そして、なぜそんなバッシングを「男」という属性と結びつけられなくてはいけなかったのだろう。もし彼が本当に子育てを全くしていなかったとして、どうしてそれが「男」という属性と結びつくのだろう。私には、どこを切り取っても分からないことだらけで、やっぱりうまくなじめない。彼の自殺の原因は分からない。ファンでもなかったし彼の発信内容すらもよく知らない。他人である私には、何の予想もできない。けど。

例えばもし、彼が本当に「女」になりたくて、「男」という性になじめなかったのだとしたら。もちろん子育てのことや離婚に関するバッシングも辛いだろう。加えて「やっぱり男だ」という言葉は、彼のセクシュアリティに関するアイデンティティを根底から破壊する、とても鋭い武器になりえたのではないかと思う。まあこれはあくまで「もし私だったら」でしかないけれど。そしてそれはそのまま、今現在性別違和を抱えるすべての人に対する攻撃となる。どれだけの人を傷つける言葉になりえるか、想像したことがあるだろうか。

 

 

だいたい、言葉は、そのまま自分に対しての呪いになると、なぜ分からないのか。その言葉に、自分が先々縛られていくのに。

 

 

「子育てに対して無責任。やっぱり男だ。」→女は子育てに責任を持つ生き物だ。

「離婚して子どもを女に押し付けた。」→女なら子どもを引き取って面倒を見るもの。

「そもそも離婚が無責任」→離婚してはいけない。子どもは夫婦そろって育てるもの。

「女みたいな恰好して気持ち悪い」→女=可愛い恰好。いや男女関係ある?好きな恰好すりゃよくない?

 

 

とかね。大げさって思う?でもね、本当に全部返ってくるから。見てな。思い込みって、何気なく出てくる言葉に全部透けて見えるものだから。そんで、言語化すればするほど、その思い込みは強化されていく。人に対して厳しい人は、自分に対しても心が狭くなる。そして、それをまた他人のせいにしてループして。そんなことを繰り返しても、自分が幸せになれるわけじゃないのに。かわいそう。

 

 

最近、LGBTみたいな言葉が流行るとそういう子が増えるとか、混乱してかわいそうとかいう主張も見かける。確かに、どっちも自由に選べるって言われたら困っちゃうよね。

 

 

これは私個人の価値観なんだけど…。選ばなきゃいけないくらい、男女の社会的扱いが違うことがまず問題じゃないか?私はトランスジェンダーじゃないので、本当の意味で彼らのことを理解することができない。だからこんな好き勝手言えるのだけれど…。もし本当に平等に、同じように社会生活が送れるなら、身体の性別に抗う必要も迷う必要もないからそれで増えることは基本的にないと思う。どちらか選べますって選択肢を与えられたときに、わざわざ変えたいと思うほどには男も女も不自由していて、だから異性を羨む。異性の不自由さを想像もせずに。

いちいちそんなことを悩まずに、自分を苦しめる思い込みの方を、型の方を取り払う努力をした方が、よっぽど建設的だと思うのだけれど。

 

 

放っておくと、勝手に型が取り付けられていく世の中だから。意識的に外していきたいんだ、私は。

 

 

本当は性犯罪のこととかも書くつもりだったんだけど、あまりに長い&この記事と同じところにまとめるのは嫌になったのでまた次回。

 

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