くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

石原さとみのコメントから見る、真意のズレ。

お久しぶりです。昨日は、日本アカデミー賞の発表がありましたね。

 

 

家に帰ると、たまたまついていたのでボーッと観ていました。私は映画好きでもなんでもないので、大半が観ていない作品です。

「そしてバトンは渡された」は、観たいなと思いつつ見逃した作品。ネタバレされちゃったなーなんて思いながら、まあボーッと見てました。

 

 

石原さとみさん、妊娠されてるんですね。ちっとも知らなかった。生まれてくるお子さんに、この作品は見せたいと。映画に出てくる娘のように育って欲しいと、仰っていました。娘役二人の笑顔が本当に大好きで、素敵だから、と。

そんな話をされていました。

 

 

やっぱりこれ観れば良かったなーなんて思いながら、まあそう思っていたこともすぐに忘れて、眠りにつきました。

 

 

今朝。

 

 

LINEに通知が出てくる、マイナビニュースに、こんな見出しが上がっていました。

石原さとみ、生まれてくる子の理想は永野芽郁

 

 

 

…あれ?そんなこと言ってたかな?

 

 

 

 

思わず開くと引用が載っていましたが、やはりそんな言い方はしていなかったことがすぐに分かりました。

そして戦慄しました。

実際に映像を見ておられた方は分かるのではないでしょうか、この見出しの強烈な違和感が。

 

 

 

 

たぶん私は、これに違和感を覚えない人とはきっと分かりあえないんだろうなと思います。

 

 

 

「私の理想の恋人はこの人」というのと、

「この人みたいに〜〜な人が好き」と言うのとでは、随分と意味も、ニュアンスも、変わってしまうと思いませんか?

前者は「固有の人」に、後者は〜〜という「性質」に光が当たります。私も全文覚えているわけではないので誤解があるかもしれませんが、石原さとみさんは、娘さんに「永野芽郁」になって欲しいわけではないと思うのです。

 

 

永野芽郁さんの、こういう良いところを学んで欲しいとか、こういう風に成長して欲しいとか。劇中の役に照らして、たくさん愛情を受けて育って欲しいとか、自分が愛情を注いだ結果としてこんな風に育って欲しいとか。想像も多分に含みますが、文脈的にそういうニュアンスだったと、私は記憶しています。

 

 

 

「生まれてくる子の理想は永野芽郁」という言い回しには、「こういう性質を持った子が生まれてきて欲しい」というどこか他力本願な、子どもに一方的に「こうあって欲しい」という理想を押し付けているような響きを感じるのは私だけでしょうか?

 

 

 

日常生活で、私たちは何気なく言葉を使います。毎日毎日「この言い方は違うかな、あれはニュアンス違うかな」なんてやっていたら何も話せなくなってしまいますし、いちいちこだわる必要もないとは思っています。

そもそも言葉ってただの記号で、そこから持つ印象も解釈も読み取ることも、人によって違っていたりします。

だから、石原さとみさんの言葉の解釈だって私が誤解しているかもしれないとも思います。どう解釈するかは自由だから、マイナビニュースと同じように解釈している人もいるかもしれないし、本意は本人にしか分かりません。

 

 

 

だけど。

 

 

 

少なくとも、文章を仕事にしている人は、もっと気を遣って本人の意図や、言わんとしている根っこの部分を汲み取る書き方や、見出しの付け方をして欲しいと思います。

分かっていてPV上げるために「開かせる」見出しをつけるなんてもっての外です。最近はそういうの多いんでしょうけど。あんたらの仕事のポリシーはどこにあるんだって話ですよ、本当に。

(まあ私もまんまと引っかかってる一人なんですけどね。)

今回のことくらいなら、多少誤解しようがどうということもないのですが、こういった形でいろんな、例えばスキャンダルに関するインタビューや、謝罪会見や、政治家の発言なんかが、マスコミの良いようにちょっとずつ歪められてるんじゃないかなと思うと、ね。

 

 

 

読む側が自衛としてできることは、絶対に見出しで分かった気にならないこと。

石原さとみの子どもの理想って永野芽郁らしいでー」とかね。昨日の放送観てる人からすると、ぱっと見はまあ、そうっぽいような気もするけどやっぱりそれはなんかびみょーーーに、感覚的に違うことないですか⁇

 

 

 

それと、見出しに引っ張られない。

読む側は最初に見出しが文章の中心だと思って読んでしまいます、無意識的に。

だから、本文にもし見出しのようなことが書いてなかったとしても、書いてあるかのように、そしてそれが筆者の言いたいことだと誤解する、ということがしばしば起こります。

で、本文を読んだ気になって意見して、場が荒れる、混乱する、なんてことが起きる。

でも実際には本文には書いてないから、書く側は「そんなことは書いてません」で言い逃れができるって寸法です。

 

 

わざとなら性格悪いなと思うし、わざとじゃないなら、自分の書いた文章の軸すら分かってないってことなので書き手失格だな、と思うわけですが。(エッセイや小説はまた別でしょうけどね。事実を伝えるニュースにおいては、こと重要だなと。)

 

 

読む側は、そういう仕掛けがあるかも、と思いながら読むだけでも、誤解は随分減るんじゃないかな、と思います。

まあ再三色んなところで言われてると思いますが。自分でこんなにありありと体感したのが初めてだったので、自戒も込めて。

 

 

では、また。

 

 

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