くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「幸せの青い鳥」を終えて。

劇団ミュージカルパーク定期発表会「幸せの青い鳥」、無事終演いたしました。ご来場いただいた皆様、公演にあたってご協力いただいた皆様、誠にありがとうございました。ご自身にとっての「青い鳥」について、ほんの少し、思いを巡らせていただけたなら幸いです。

 

 

さて、ここからは完全なる私の独り言であり、一緒に公演を作ってきた皆さんに宛てた私信であったりもします。お客様にとっては、観ていただいた結果が全てで、思うことも経過も、作品の中で伝わっていなければ、それはないも同然。だから、誰でも見られる形で残すのかどうか、少し迷ったのですが。口にするとさらりと流れてしまうたくさんの感謝と、今の私の胸の内をきちんと記しておきたく、ブログにアップすることにします。

 

 

まず先に、初めて挑戦した振付のことを少し。

 

 

今回、冒頭のクリスマスダンス、思い出の国へ、最終決戦の一部分を振付させてもらいました。この振りはこの人は踊れそうか、全員でこの動きはできそうか、立ち位置はこれでいいか、等々…。いろんなことを、これまで振付や指導をされているゆかちゃん、ちーちゃん、かおりさんに相談しながら、なんとか形にできました。説明力がないので、振り落としにも時間がかかること、かかること。初回の振り落としの日は毎回微妙に憂鬱で、終わった後はドッと疲れる。これを何年もずーっとされているお三方は本当にすごいなと、自分でやってみて改めて、尊敬と感謝の思いが湧いてきました。

そして、出演者の皆さんに心からの感謝を。頭でイメージしても思い通りにいくとは限らなくて、落としてから振りが変わって覚えなおしてもらうことも何度かあった。立ち位置に対しても振りに対しても、色々思うことはあったかもしれないけど。

私が思い描いた以上の絵が舞台上には広がっていて、それは当然、出ている皆さんの力でしかなくて。私の拙い説明、振りを、素敵なものに仕上げていただいて、本当にありがとうございます。

 

 

 

そしてここからは、「瞳」という役について。

 

 

 

台本を最初にもらった時、一番やりたいと思ったのが瞳でした。人によって見え方が違う存在。相手を映す存在。難しそうで、でもやりがいも大きそうな役。完全に一から作っていける役。そして何より、私がごくごく短い26年の人生の中でほんのわずかずつ学び取ってきて、今なお意識して学んでいる最中の、でも忘れがちで、大事にしたいことを象徴する存在のように思ったから。

 

 

だから、配役が決まった時は本当に嬉しかった。でも同時に、プレッシャーでもありました。瞳をやりたい人が他にもいたのを知っていたし、知っている以上に、やりたい人はたくさんいただろうなと思うから。台本の時点でやりたい人が多い魅力的なキャラクターである以上、演じた時にお客さんからして「魅力的だな」「つい見てしまうな」というところまで持っていくのが当然の最低ラインだろうなと思ったから。瞳の作り方次第では、この素敵なお話の中の大事なメッセージが、全く伝わらなくなってしまうことが分かったから。それでも、任せていただいたからには「かほにして良かった」と全員に納得してもらえるようにしたい、と思いました。

私は本当に、歴だけは長くて偉そうにアドバイスしたりもしているけれど、成長速度は亀のように遅くて、話の根幹に関わるような役をした回数は、実はそんなに多くありません。だから、他だったらもう10年にもなって「ここでこの子は頭打ち」となってもおかしくないところ、こんな風に今でも挑戦の場を与えていただけること、本当に感謝しかありません。

 

 

そしてもう一つ。「支える側」でいないと、というのも、最初はもう一つのプレッシャーでした。これは勝手に背負っていただけなのですが。

以前発表会で主演をさせてもらった時、明らかに私は「挑戦者」の側で、みんなに助けてもらって、支えてもらって、やっとの状態でした。本当はもっと引っ張らなきゃいけなかったと今でもずっと後悔しているのですが、あの時は自分のことだけを考えていてもまだ許された。

でも今回、一番重いものを背負う挑戦者は間違いなく主演の2人。私自身も挑戦者で、でも間違っても私が2人の足を引っ張るわけにはいかないから、2人が安心して自分のお芝居ができるように。もしできることなら、私がたくさんの人に支えてもらったように、ほんの少しでも2人の荷物が軽くなるように、高く飛べるように。そんなことを、ぼんやりと思っていました。まあそんな気を回さなくても、勝手にぐんぐん伸びていく2人だったので、こちらのプレッシャーはすぐ消えました。むしろ、とてもたくさん刺激をもらっていて。足は引っ張らずにすんだかな。

 

 

自分の役作りについての紆余曲折と結果は、ご覧いただいてきた通り。ただ、やっていく中ですごく面白いなと思ったことが。

 

 

最初、瞳の本当の正体が分かるシーンから逆算して、どのシーンでどこまで悪役感を出すか、ということを迷っていました。でも合宿の時に、一つ転機が。

二日間の2人の頑張りを見ていた私は、正直とても気持ちが穏やかというか、2人を応援する気持ちと「ここまできたんだな」と嬉しく思う、その気持ちのまま通しに挑んでしまいました。結局その気持ちは最後までうまく戻せず、最終決戦前もとてもやさしい気持ちのままでした。終わって「優しすぎたかな」と反省していると、とても良かったよと言われました。おや?おかしいな??

それを機に、あんまり「悪役っぽさ」を意識しないようにしました。それまでなんとなく自分の中でブロック分けして、悪役らしく見せたい時はこういう感じ、優しく見せたい時はこういう感じ、この人との時はこうしてこのセリフの時はこういう顔で…と、細かく切り分けて組み立てようとしていた全てを、一度全部取っ払って、「瞳の根っこはこういう思想のこういうキャラクターだ」ということだけを念頭に置くようにしてみました。

すると、そのあたりを境に、芝居が良くなったらしい。なぜかは分からない。瞳(というか私だけど)は最初から最後までひたすら「二人可愛い!大好き!頑張れ!」としか思っていなくて、意地悪な気持ちも怖がらせるつもりも一切ないのに、なぜか怖いと言われる複雑怪奇。女王様も猫も大好きとしか思っていないのに、苦手と言われ避けられる。なぜ??あれ、これってまさに瞳の心境?ちょっとしたアハ体験でした。

 

 

でね、なんでこんな話をしたかというと。

 

 

瞳の「相手を映す」って、その瞬間瞳の芝居をする私自身にも同じことが言えるんだなって思ったんです。私が内心「瞳をこういう役にしよう、こう見せよう」って考えて、行動したとしても、そう見えなかったら意味がない。それは間違いなくそうなんだけど、「そう見える」かどうかも、私が何をするかではなくて、見ている人の目に委ねられているんだなって。もちろんだからといって何をしても良いわけではなくて、意図があるならそう受け取ってもらえるような稽古や工夫は大前提として必要だけど、最終的には「どう見えるか」「どう見せるか」なんて考えていてもあんまり意味はなくて。私は私が思う瞳として、素直に2人と、そして舞台上のみんなと一瞬一瞬向き合ってみることが、瞳を演じるってことなんだろうなと。私にできたことはそれだけで。

 

 

だからね。どのシーンも同じ瞳に見えていたり、瞳の中に「たつみかほ」が見え隠れしたりしていたなら、それは単に私の力量不足なんだけど。

 

 

もしも、瞳がシーンによって違うように見えていたなら。悪役に見えたり良い人に見えたりしていたのならば。

 

 

それは、瞳と対峙しているチルチル・ミチルや、魔法使い、夜の女王、精霊たち、そしてその場にいる出演者全員が、瞳をそれぞれに「このシーンの瞳はこういう存在だ」と認識してそう扱ってくれたから。音や照明やストーリー展開で、「こういう存在だ」として分かりやすく示してくれたから。そして、その全部をお客さんが拾いあげて、瞳を各シーンごとに「こういう存在」として「見て」くれたからなのです。私だけでは絶対に成り立たない。衣装も変えていない、笑顔ベースなことも変わらない、瞳(私)自身の2人に対する胸の内も、反応はあっても2人のことが大好きだというベースは変わりません。その中で違うように見えたとすれば、間違いなく見ている人が、私に、そのシーンにあるべき瞳の姿を映してくれていたからだと思うのです。

 

 

くどくどと長くなりましたが、だから私の力はほとんどなくて、関わったぜーーーーーーんぶの方が作り上げてくれた「瞳」なんじゃないかなって、私は思っているのです。私自身は、難しいことは全部、一緒にシーンを作る皆さんと受け取るお客さんにお任せして、楽しくのびのびとやらせていただきました。本当に本当に、ありがとうございます。

 

 

次回は、さらにレベルアップできるように。引き続き精進していきたいなと思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

幸せって、何だろう⁇

人にはそれぞれ、大切なものがある。

 

 

夢、目標。思い出、未来。

家族、友達。

富、名声。正義、愛。

 

 

幸せでありたいと願わない人はいないだろうけれど、その幸せの形は様々だ。

 

 

例えば、自由であることや自分で自分の道を決めることに幸せを感じる人もいる。

それが不安で、人に決めてもらうことが幸せだと感じる人もいる。

 

 

今楽しければそれで良い人もいれば、もっと大きな目標に向かって努力することが幸せな人もいる。

 

 

自分を高めることに幸せを感じる人もいれば、人のために行動することに幸せを感じる人もいる。

 

 

そのどれもが正解で、尊重したいと思うけれど、本人が無自覚だと難しい。環境ももちろんあるし、持って生まれる性質もあるけれど、やっぱり最後に選んでいるのは自分なのだ。

 

 

でも、だからこそ、人が選んだ道は妨げたくない。何がどうあれ、選んでいるのは本人だから。

 

 

究極のオープンワールドな現実で。

 

 

遠い目標のためにただ一つの道を決めてまっすぐ進むのも、あちこち寄り道しながら歩くのも、どこへも行かずに近くに見える景色をただ楽しむのも、全部全部素敵なことだ。

 

 

迷うのも、悩むのも、苦しむのも、全部。

人に決めてもらうのも、言いなりになるのも、全部。

それを、自分で選ぶのも、立派な選択肢の一つ。

 

 

本音と言動が一致しないことなんて山ほどある。でもそれも、一致させないことを自分で立派に選んでいる。

 

 

毎日毎日、全部が小さな選択の連続で。でもそれがどこへ向かうのか、どこにも向かわないのか、本当は誰にも分からなくて。分からないから、迷う。情報の海の中、人の森の中、正解を求めて右往左往する。

 

 

でもね。

 

 

大事なもの一つ握りしめていれば、例えどんな道を選んでも、きっと行きたいところに行ける。幸せに辿り着ける。

 

 

私自身が本気でそう思っているからこそ、表面だけじゃない言葉尻じゃない「核」を、溢さずに届けたいなと思っている。

 

 

 

劇団ミュージカルパーク定期発表会

「幸せの青い鳥」

8月26日(土)13:30〜

滋賀県大津市生涯学習センターにて。

ぜひ、お越しください。

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(あれ、ただの長めな心のつぶやきのつもりで書き始めたんだけどな⁇いつから宣伝ちっくになったんだ、おかしいな⁇)

 

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誰かにならなきゃ、が、誰かになりたい、に変わる時

たまには、お芝居メインの話もしようかな。

(カテゴリー作ってるのに全然書いてない。)

そう言いつつ、結局どこに行きつくかは分からないけれど。

 

 

誰しも、それを一番最初に始めたきっかけ、というのがあると思うのですが。

私、芝居がしたくなったきっかけ、全く覚えていないのですよねぇ。どうしてやろうと思ったの?って、よくある質問じゃないですか。特に芝居をやってる、なんて言うと、たいていこれを聞かれる。別にそんな珍しくもすごくもないと思うんだけど、スポーツとかと比べるとやっぱり不思議みたい。

 

 

でも、いつも答えられない。なんでだったかなぁ。

 

 

入学した高校にね、部活がなかったんですよ。演劇部が。だから、今の劇団に入ることになったんだけれど…。なぜ演劇部に入りたかったのか、と聞かれると、ちょっと困る。だからいつもはぐらかす。答えになっていないと自覚しつつ、劇団に入った理由を答えている。

 

 

たぶんね。

ああ、「今考えてみると」だから、当時の自分が本当はどうだったのかは分からないのだけれど。(過去を再構築するとってやつですね。)

 

 

私は、自分じゃない誰かになりたかった。

そしてその「なりたかった」は、決してポジティブな理由ではない。

 

 

タイトルに書いたように「なりたい」に見せかけた「ならなきゃ」だったんじゃないかな、と思うのです。「have to」じゃなくて「want to」。もちろん当時から「ならなきゃ」っていう自覚があったわけではなくて、その時には本当に誰かになりたくて、だから今でも、自分じゃない誰かに「なりたかった」からだと、当時のことを表現する場合がほとんどなのだけれど。それは、他に自己表現の手段がない、自分のままではうまく外に表現ができない、後には引けない、自分を捨てたい。そんな焦燥感や逃げから生まれる、切実な「なりたい」だったような気がするのです。だから、役者になりたいとか、大きな舞台に立ちたいとか、そんな思いは本当はなくて。むしろ「そう思わなきゃいけない」と思っていたのかもしれない。野球部入るからには甲子園目指すって言っておいた方が良いかな、みたいな。そんな感じ。口ではたまに「役者したい」とか言ってたこともあったかもしれないけれど、そうなった自分とか、それに向けて行動する自分とかは、考えてみてもあまりイメージが湧かなかった。動機が動機だったから、余計にね。

 

 

だけどそれが、少しずつ変わっていった。

 

 

本当に根っこからガラっと変わったのは、実はここ2~3年の話かもしれません。でもその2~3年の出来事だけで急に変わったわけではなくて。これまでの積み重ねによる変化が、やっと表に出てきたのがここ2~3年なんだなって感じ。

 

 

私は今、心から、誰かに「なりたい」と思っている。

「have to」ではなく「want to」で。別に、今の私で良い。そこに何の不足も、問題もない。ただただ、誰かになるということが、素直に心から「楽しい」と思える。

 

 

やっと、スタートライン。遅すぎるスタートライン。だけどそこに立てたことが、とっても嬉しい。色んな人との出会い、奇跡が重なって、ここに今立てているんだなって。

 

 

どこ目線とか、何を目指すかとか、目的によって違うと思うんですけど。私は、お芝居って結局「自分」なんだなって、思うんです。あ、経験したことじゃないとできないとか、自己主張するとか、そういう類の話ではなくってですよ?自分が嫌いで他人になりたいと思っても、それって絶対どこかで綻びが出る。だってどこまでいっても、どんなに努力を重ねて技術を学んで場数を踏んでも、自分が自分である、という事実が変わることはない。自分を役で塗り固めても、自分は自分でしかない。そこは変わらない。本質的に誰かになる、なんてことは絶対にあり得ない。それを認めたうえで、誰かに「なってみる」「なろうとする」ことが、芝居の面白さだなって私は思います。

 

 

まあこれが「人に良いものを見せる」とか「芝居で身を立てる」とかになると、だいぶ観点が変わってくるでしょうけどね。「芝居をすること」と「芝居で何かを成し遂げること」では全然意味合いが違うので。「芝居で、嫌いな自分以外の誰かになること」が目的化すると、それは不可能なのでろくなことないよって話でした。

 

 

でも結構いそうな気がするんだよなぁ、そういう人。中学高校の弱小演劇部とかって結構そういう雰囲気の人多そう…。ごめんね、これは偏見かもだけど。思春期に「他人になる行為」って、自分が嫌いな人には魅力的に映りやすいのかなって。まあ自分も含めて、なんだけどね。

 

 

まあそんなこんなで、今が私は一番楽しい。変わるきっかけになった劇団のこと、いろんな出会いのこと、とか、もうちょっと書きたいことあったんだけどね。長くなりそうなので、また今度。

 

 

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お初のシューズと、お初の瞑想の、行く末は。

ここ最近、ブログをこちこち書いておりましてね。アップしたやつ以外にも、書きかけのものがたくさん溜まっております。

スマホアプリで思いついた時にメモ程度に書き残していることが多いのですが…。やっぱり、ブログはPCですね。よし書き上げるぞ‼︎と気合いを入れて立ち上げると、案外スッとまとまったりなんかして。画面が小さいと、前後の流れをスクロールしてあちこち確認しないといけないのが進まない原因のような気がします。スマホは気軽に残しておけますが、まとまったら量書くのは私には不向きなようです。

 

そんなわけで。

 

先週は、なんだかとても頭を使っておりました。仕事行って、帰ったら書いて。ブログは好きでやっているので全く苦ではないのですが、頭を使うことなのでそれなりに疲れはします。年がら年中ゲームできる人とかすごいな、と思う。あれもジャンルによっては結構頭使うと思うんだけど、疲れないのかしら。私は、たとえ趣味でも頭使ったら疲れます。集中してる最中は良いんだけど、切れるとバランスを崩す。先々週は振付だったり芝居のことだったりを考えることが多くて、でもあれはそれだけでバランスが取れている気がする。考えることも多いけれど、身体を動かすし、台本も理論じゃなくてイメージの領域なので、そんなにどっと疲れたりはしない。

 

金曜は久しぶりにヨガにも行ったのですが、時間的に難しいコースしか空きがなかったので、ポーズの理解のために余計に頭を使った気さえする。本当は土曜は久しぶりにカラオケに行くか、家に引きこもってもう少しブログを書き続けようかと思っていたのだけれど、なんだそんな気分でもなくなってしまった。このまま来週を迎えるのはなんだか嫌だなぁ。手っ取り早く戻す方法は…。と思い、とりあえず頭を空っぽにしてタロット2枚引き。「今日1日の行動指針は?」

1枚目はおすすめの行動、2枚目はおすすめじゃない行動っていう超単純なスプレッド。

1枚目はペンタクルの5。ペンタクルは物質、5は自由・変化を表します。よくカードの説明には「不幸、喪失」とかって書いてあるんだけど、これ理由があって。物質的なものが自由になると、失うよねってことなんです。これが逆位置になると物質が自由になっても自分が持っているものに気づく、つまり精神性、信仰とかになるんです。ストレートに取ると物質の自由・変化が、私の今日の行動指針。2枚目は大アルカナ「世界」の逆位置。世界は完全、完結を表します。その逆位置。逆位置って色んな解釈があるんだけど、正位置のエネルギーがうまく活かせていなかったりマイナスに働いている状態。私は1枚目の「5」という数字と合わせて、この世界を「停滞」ととりました。動かず今の状態で完結して停滞して変化がない、みたいなね。

 

この2枚から、私的解釈でのこの占いの結果は「外に出よう、動こう、ついでに金使おう‼︎」となりました。別にただの占いなのでその通りにする必要はないのですが、家でじっとしてても頭がぐるぐるするだけのように思えたので、とりあえず出かけることを決定しました。さあ、どこへ行こうか。

 

 

そういえば、昔からずーーっとパワーストーンのお店気になってたな。一時期流行っていて、パワーストーンのブレスレットをつけている友達が何人かいたことを思い出しました。一本くらい持っていても良いかもしれない。数珠みたいなもんだし、長いことつけると思えばそんなに勿体なくもないだろう。なかなか良いお金の使い道だぞ。よし、行ってみよう。

 

そうと決まれば早速検索。Google mapsで一番に出てきたお店に即決。東西線 京都市役所前駅から徒歩10分ほどのところにある、クロージョーアイズさん。道中にHP見ていると、今日は月に2回の瞑想ライブがあるとのこと。瞑想なのに、ライブ⁇え、何それ面白そう‼︎興味津々でお店へ…といきたいところですが、道中これまた面白そうなお店があったので、ちょっと寄り道。(どうやら本題まで、まだまだ時間がかかりそうな予感ですよ。)

 

よく分からないド派手な手帳に目を奪われて入ったのは、PERMANENTE(ペルマナン)。自転車やら手帳やら香水やら置いてあって、何のお店?って感じだったんだけど、ヨーロッパの雑貨を置いているセレクトショップなんだそう。真っ白い店内にカラフルなコーナーがあったり、真っ黒なコーナーがあったりと、言われてみれば確かにヨーロッパっぽい。知らんけど。そんな中、私が1番気になったのがスニーカー。編みぐるみみたいなのがくっついてて、個性的でめちゃめちゃ可愛い‼︎‼︎昔から柄とかモチーフがついてるポップなスニーカーに惹かれがち。でも靴って頻繁に履くものだから、合わせる服を選ぶようなものは買いづらい。安ければそれでも良いけど、個性派スニーカーはそれなりに良いお値段するものと相場が決まっている。それに、自分の気にいる理想の派手さ具合、ガチャガチャ具合って、値段抜きにしてもなかなか見つからなかったりする。ただ派手が良いというわけではないのだ、一応。

 

そこへ、ドンピシャタイプなスニーカーが現れたわけですよ‼︎うわ欲しいな。

ソワソワと眺めていると、店員さんが「履いてみますか?」と声をかけてくださいました。なんと表面は手作業で編まれているんですって。海外のものなのでサイズ表記がよく分からなかったのですが、普段のサイズを伝えたら中からいくつか出してきてくださいました。あまり伸びない素材とのことで、履く時にはちょっと手間取るのですが、履いてみるとピッタリ。ちょっとダンスシューズ履いてる感触と似ているかもしれない。底は普通に硬いから足が自由に動くってわけではないんだけれど、足の甲だけピタっとフィットしてる感じかな。そして何より可愛い。色んなデザインがあってどれも可愛いんだけれど、私が選んだのは白地に目玉とキノコがくっついているやつ。余裕で普段履きできそうなのに、ちょっとした遊び心って感じで馴染みすぎなくて。左右非対称なのもとても良い。

これはもう買うしかない。いやこれ絶対高い。分かる。だって店頭に値段表示一個もないんだもん。でも値段見る前からほぼほぼ気持ちが固まってしまいました。頭をよぎったのは、花より男子にも出てくるパリの言い伝え。「素敵な靴は、あなたを素敵な場所へと連れて行ってくれる」初めてこれを聞いた時、パリっていう場所のイメージとも相まって素敵な靴=有名ブランドの綺麗なパンプス、みたいなのをイメージしてたんだけど、それってあんまり私の好みじゃなくて。でも今思うとそうじゃなくて。多分素敵な靴って、履き心地とかデザインとか色々ひっくるめて、履いているとワクワクしてどこへでも行きたくなるような、自分にとっての「素敵な靴」なんだろうなって思うんです。そう、自分にとっての、ね。こんなに気に入って、履き心地も良い靴、次いつお目にかかれるか分からない。そしたらもう、買う以外選択肢ないなって。

 

目的地に辿り着く前に大幅な出費。でもそれ以上に心はホクホク。他に置いてある物も気になるものいっぱいだったし、お店の人とも楽しくお喋りできたし。「買う物なくてもまた遊びに来てくださいね。」って言ってもらったので、遠慮なくウィンドウショッピングできるぞ。今回はタロット上手に読めたのかもしれないぞ。従ってみて正解だったな、なんて。

(後から知ったのですが、この靴、イランの伝統技術と創造性の融合、女性への職提供と社会的自立なんかを背景としているブランドだそうで。巡り合わせだよね本当。)

 

さあ、寄り道を終えてやっと目的地へ。

 

お店に入ると、いーーーーっぱいのパワーストーン。おわ、壮観。めちゃくちゃときめく。お店の人にも相談に乗ってもらいながら、散々迷って最終的にブレスレット2本を購入。まずは情報を入れずに値段も見ずに直感で5本選んで、と言われて、選んだ石の意味を教えてもらったのですが、なかなか面白い並びになりましたよ。タロット占いとも似てるなぁと思いました。選ぶものには、今の私が映っている。そう、映るんですよねぇ。物だけじゃなくて、現実世界にも、ね。ふふ。でもそこに映っているのは、今の私だけ。ふふ。

 

 

さあ来ました。やっと本題ですよ。ここまでで3000字超え。長い道のりでした。

 

 

お店の雰囲気が浮世離れしすぎず、良い意味で「普通」な雰囲気でとても楽しかったので、予定通り瞑想ライブにも参加させてもらうことに。(これで参加しなかったら完全にタイトル詐欺。)

 

 

実は、全くの瞑想初挑戦かというと実はそうでもなくて。(おや、結局タイトル詐欺か?)ヨガの最後に、ほぼ毎回「安らぎのポーズ」っていう、寝っ転がるだけの姿勢をするんですね。あれ多分、軽い瞑想的な意味合いのものだと思うんですよ。ただ、身体動かした後だからか毎回眠くなる。なんならガチで寝落ちしたこともある笑。だから、瞑想だけに集中するという意味では今回初めてなのです。(だからギリタイトル詐欺じゃないはず。)

 

畳の上に楽な姿勢で座る。一人一つずつ、自分の前にキャンドルの火が置いてあります。正面には、これまたキャンドルの火がいくつか。その後ろには、演奏者さん。そうそう、これ一応ライブなんですよね。忘れてた。そのまた後ろにはスクリーンがあってなんかいい感じの写真が投影されていました。

 

まずは店長さんから、瞑想についてのちょっとしたお話。何だか、地元の盆祭りの時にお坊さんから聞くお話を思い出しました。瞑想のやり方は、至ってシンプルです。火を見ながら、心を無にする。まあこの「無にする」というのが、とても難しいことなのだけれど。雑念は湧いてくるものなので、それが思い浮かんできたことは気にせず、受け流すように、とのこと。あとこの日は半月だったのですが、精霊の声を1番キャッチしやすいんですって。(満月と新月の説明もあったけど忘れた。)精霊、ねぇ?ふふふ。なかなかどうして、面白い日である。ちょっとよく分からんが、まずは実践あるのみ。

 

演奏者さんにバトンタッチして、ここから演奏。演奏と言うけれど、音楽っていう感じではない。強いて言うなら、ASMR的な感じ…?てっきり自分の前の火を見るのかと思ったら、正面に置いてある火を見るらしい。大人しくその火を見ること数分…。眠い。どうしようもなく眠い。あ、起きなきゃ!ってハッとすると、その「起きなきゃ!」が雑念じゃないですか。で、それがなくなってくるまた眠た〜くなってウトウト…。あと眠いのに目見開いているせいか、一点をずっと見ているせいか、尋常じゃなくコンタクトが浮いてくる。しばらくして、ふとスクリーンに目をやると、文字が書いてありました。「close your eyes」あ、これ目閉じてて良かったの?閉じると余計にうとうと。頭もゆらゆら。半分寝ている情緒で、でも不思議と音は聞こえています。ああ、そういえば死ぬ時って、聴覚が最後まで残るんだっけな…。なんて考えていると、時々目の覚めるような「カーーーン」という音が聞こえます。ファンタジー映画の空間にいるような、不思議な気分。ふと、草原見えた気がしました。おお、ついに夢まで見始めたぜ。おもろ。終始睡眠と覚醒の狭間を彷徨っているうちに、1時間の瞑想タイムが終了しました。

 

 

感想。

 

 

瞑想って何????

 

 

いや、でも分かったような気もする。寝る前や起きてすぐに自分のなりたい自分を思い描くと良い、という話を聞いたことがある。これはただの言い伝えでも不思議話でもなんでもなくて、脳科学的にそうらしい。人間が自分で意識できる部分は全体の2割ほどで、まさに氷山の一角。意識できない8割をどう使うかで、脳のパフォーマンスが変わってくるという話だ。最近は色んなところで聞くから、有名な話かもしれないが。この潜在意識にアクセスするのに、1番良いのが寝る前や起きてすぐ、つまり睡眠と覚醒の間なのだ。瞑想は、その状態を意図的に作り出していると言える。私は不思議なものが大好きだけれど「瞑想して宇宙と繋がる」とか「瞑想で精霊の声を聞く」とまで言われると、それをそのまま信じているわけではないし、なんなら若干引く。でもこれは要するに、自分の潜在意識と繋がって、自分が潜在的に感じている思いだったり望みだったりをキャッチしていると考えると、そんなに違和感なくスッと入ってくる。でもその「自分が潜在意識で思っていること」をキャッチした時に「自分が潜在的に持っていた思いを受け止めて行動する」ということを自分の責任において決めるのは、時には重たく、大変なことだったりする。それが普段の自分と乖離していればしているほど、特に。そんな時に「宇宙がそう言っている」「精霊に言われた」ことを理由にしてでも、とにかくそちらに向かって行動してみる、というのは、とても理に適っているというか、賢いやり方なのではないだろうか。「何かのせいにせず自分で責任を持て」という言葉も聞こえてきそうだが、何かのせいにして行動しないよりは、何かのせいにしてでも行動を起こしてみる方が、よほど建設的なような気はする。まあ、その行動が向かう結果に対して自分だけが責任を負うということは、どちらも同じだけれど。

 

 

 

「精霊のお告げ」とやらを聞いたところで、そのお告げを実行するかどうかを決めるのは、自分でしかないのだから。

 

 

 

脳というものは非常に面白いものでして。そんなつもりで出かけた訳では全くなかったのだけれど、無意識にアンテナを張っていたみたい。

 

 

 

彼女は本当に、見ているだけなのだ、きっと。ただ見ていて、時々声をかけてはみるけれど、それだって最後の判断は自分。彼女に映った自分を見てどう行動するのか。それを、彼女はただ面白く、ほんの少しの期待を持って、見ているだけ。彼女は私。私は彼女。彼女は誰でもあって、つまるところ私は誰でもあるのだ。今の私は、彼女にどう映るだろうか。彼女は、私は、どう変わっていくのだろうか。禅問答な半年間になりそうだ。

 

 

 

8月26日(土)。ミュージカル「幸せの青い鳥」。きっと、面白い作品になりますよ。します。チルチル・ミチルたち兄妹と共に、幸せを探しに行きましょう。私も、喜んでお供いたしますよ。来てね。

 

 

 

…家に帰ってから気がついた。「close your eyes」「クロージョーアイズ」………

スクリーンに映ってた文字、ただの店名やった。指示じゃなかった。目閉じたらあかんかったっぽい。そら目閉じたら寝るしかないよね。やっぱり瞑想はよく分からん。

 

 

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新企画!の、その前に。MBTI診断と私の関係。

書きたい時に、書きたいことを、書きたいだけ書く私です。色んな記事が尻切れとんぼになってますが、新連載的なことを始めてみたいと思います。その前書き的なやつです。

 

最近のマイブームであるMBTI診断について。

 

時折SNSで話題になったりもするので、聞いたことがある人も多いかもしれませんが…。知らない人のために簡単に説明すると、心理学を基にした性格分析のようなものです。ネットで検索すると診断サイトなどもあり、膨大な数の質問に答えることで自分のタイプが分かります。

 

…が!

 

この診断、誤診が多いことも事実。というのは、いくら質問の質が良く、数が多く、的確に診断できるサイトだったとしても、答える側が的確に回答できないと意味がないわけです。基本的にMBTIで割り出される性質というのは、生まれた時から生涯変わることはありません。生まれ持ったものであり、考え方の「癖」みたいなものです。

けれど私たちの性格や行動は、環境にも大きく影響されています。今の私がどう考えているか、どう行動するか、ということを回答しても、正しい結果が出るとは限りません。

また自分で回答すると「自分はこうありたい」という無意識の願望が含まれていることも多いもの。いくら注意書きに「正直に回答すること」と書いてあっても正直に回答することは大変難しいことなのです。(なんといっても無意識ですから。)

 

私とMBTI診断の出会いは数年前なのですが、それが最近再びマイブームとなった最初のきっかけは「誤診なのではないか?」という疑問が自分の中に浮かんできたからです。とはいえ、他にも理由は色々ありますが。今日はそんな、MBTIと私の関係について書いてみようと思います。ちょっくらお付き合いくだせぇ。

 

最初に出会ったのは、高校だか大学だかの時です。正直あんま覚えてない。でもたぶんネットでたまたま見て、診断して、へーと思ったんでしょうね。そこまで印象に残っていたわけではないのです。きちんと覚えているのは、大学の授業か、進路診断か何かでやったこと。あれ、これもあやふや…。確かなのは、その時に「あれ、前と結果変わった」と思ったこと。やるまでは、昔やったネット診断なんかすっかり忘れていました。けれど結果を見た時に「あ、これ前やったわ。でも前と違う。」となったのです。具体的には、INTP→INFPになった。確か。ENFPだったかな。忘れました笑。とにかく、周りの人にめちゃめちゃ納得されたことだけはよく覚えている。あとこの同じ時期に別の診断サイトでもやったところ、ENTPでした。これまた違う。

 

次に再会したのが、劇団の友達に教えてもらった時。その時やった結果はENFP。か、INFP笑。要は、違うサイトも含めると4回、全て結果が違ったわけなのです。

 

余談になりますが、教えてくれた友達が面白いサイトを教えてくれました。それがこちら…と、言いたいところなんですが、あいにくサイトの管理人さんとコンタクトを取ってないので勝手に貼るわけにもいかず😧「A3!」「コペルニクス的転回」の2ワードで検索してみてください、たぶんすぐ出てきます。このサイト、「A3!」というゲームのキャラクターやストーリー、関係性をMBTI的に分析した記事がたくさんあるのです。A3!が好きな方はきっと面白いと思いますし、好きじゃなくてもMBTIに興味があれば面白く読めると思います。(私はA3!を知らずに読み、この記事をきっかけにA3!にハマったという奇特な人間です。)あと、芝居に触れたことがある人にも大変オススメ。

A 3!を知らない人のために簡単に説明すると、様々な境遇・年代の少年青年が、様々な理由で解散寸前借金まみれの劇団に入り、芝居をし、役者していくというストーリーです。このストーリーの登場人物を分析していくということは、ですよ!役作りや芝居の仕方、作品作りの中であるある、な騒動をMBTI的に分析している記事だ、ということなんです。いろんなやり方、アプローチ、芝居への関わり方があるんだなーなんて思う次第です

 

本題に戻ります。

 

同じ人間が、4回やって4回とも違う結果という事実。これこそ、診断サイトで出した結果が100%でないことの裏付けだと思うのです。まあ私1人の例なので、私が正しく回答できていないとも言えるんですがね。少なくとも私の場合、診断では判断できなかった訳です。

ただここでも、そんなに深くハマっていたわけではありません。なんとなく4つのうちどれかっぽいなぁと自分の中で納得もしていたし、「4つのうちどれなのか!?」がそれほど知りたかったわけでもありません。ブログの記事のキャラ分析はとても面白かったけれど、それ以上の興味はありませんでした。

 

ところが、です。

 

ブログ記事と友達の布教で今年まんまとA3!にハマった私は、ある程度ゲームに取り組み、キャラクターやストーリーを理解したところでまた例の友達が勧めてくれたブログを読み返そうと、久しぶりにブログを開きました。すると、ある記事に行き当たりました。「自己診断の罠①~Ne「直観」とSe「直感」の違い~」というものです。MBTI診断では、沢山の質問から自分が持つ4つの機能とその活用の仕方等を割り出しすことでタイプを診断するのですが、そのうち2つの機能についての記事でした。Seとは見たものをそのまま認識する機能です。対して直観Neとはパターンで認識する機能であり、私が過去診断された4つのタイプ全てが共通して持っている機能です。どうも、この2つは誤診が多いらしい。もし私のNeが誤診であれば、いよいよ私の自己認識は危うくなります。

もちろん自己認識が間違っていたところで、実生活には何ら影響ありません。でも自分の思考の癖は、知らないより知っている方が、何かと便利な気がしませんか?………何だか気になる!

 

そんなことを思い始めた同じタイミングで、もうひとつきっかけが。

 

日劇団の仲間が、オーディションに落ちたと、ひどく落ち込んでいました。その話を数人で一緒に聞いていたのですが、「オーデションに落ちた」という事実にしても「仲間が落ち込んでいる」という事実にしても、捉え方が人によって全然違っているのを目の当たりにして、すごく面白いなと思ったのです。具体的にどう違ったのかは、はっきりと覚えていないのですが…。

(私は序盤にも数回「忘れた」と書いていましたが、「出来事そのものの詳細を正確に捉えて記憶していない」というのはN型の特徴と言われており、私が診断テストでN型だと診断された一番の理由だと思われます。しかしN型の「記憶していない」はパターン性で物事を知覚するため細かい事実はあまり見えていない、そのため覚えていない、ということなので、同じ「覚えていない」でも単に記憶力が悪いだけで実はS型、という可能性もあるわけです。)

 

現実の人の言動をMBTIで分析してみたい、と思ったのは、この時が初めてでした。これまでも「私は何タイプ?あなたは何タイプ?」という話を友達としたことはありました。けれど「誰が何タイプか」ということではなくて、その人の言動や行動の裏にどんな心理機能が働いているのか、認知・判断の仕組みを分析してみたいなと、初めて思ったのです。

 

そんなわけで。

 

ここからしばらく、MBTI診断関連の記事が続きます。診断で割り出した性格タイプや傾向だけでなく、その中にどんな理由があるのかも踏まえて、各タイプ別の分析記事を書いていきたいなぁなんて、思っている所存。ただ、私は全くのど素人であり完全な独学のため、誤った情報も恐らく出てくるかと思います。書く本人が言うセリフではないですが、このネット社会、人が書いた情報は鵜呑みにしないのが一番。私のねじ曲がったフィルターを介した情報だということを頭に置いてくださいませ。

 

全タイプ書けるのはいつになることやら…(これ書くのに5日かかった)なので、「私このタイプだから早く書いて!」というご要望があれば、優先的に書こうと思います。身の回りにいるタイプの方が、私も書きやすいのでね。ただ、診断で出た結果は、皆さんも疑ってみてくださいね。質問に答えるより、心理機能から分析したほうが恐らく正確だと思われますので。私も勉強しながら、書きながら、自分がどの機能を持つのか深掘りしていきたいと思っています。ではではMBTI連載、スタートしていきたいと思います!

 

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「女を演じる」ことについて。

あなたは自分の性別について考えたことがあるでしょうか。

LGBT」「セクマイ」なんて言葉が一般的に認知されてから随分経ちますから、意外と考えたことのある人も多いかもしれませんね。

というより、これだけよく聞くのですから、一度くらいは自分事として考えてみてもいーんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。

 

 

私は昔からそういうことをよく考えるたちではあったのですが、これまで一度たりとも自分を男だとも、男っぽいとも思ったことがありません。言われたこともありません。かといって女だ、と強く思うわけでもありませんが。女と呼ばれるから女。そういう人、多いと思います。不便さえ感じなければどっちだっていいのでね。

 

 

でもって、お芝居では男役・女役の両方、おおよそ同じだけの数の経験があります。役の重要度という意味でもそう大差ないように思います。

 

 

この前、こんなことがありました。

直近の本番後、みんなで振り返りというか、一言感想を言う機会が設けられました。

私はそこで「子ども役は多いけど男役はこれまであんまりなくて…」みたいなことを話したところ、そうか?というような声がちらほらあったんですね。それで試しに数え上げると、実際には半々だったのです。

大抵の場合、異性の役だったり、苦手な方(私は自分では男性役が難しいと思っています。)を強く覚えているもんじゃないでしょうか。

にも関わらず、なぜ女性役の方が多いように感じているのでしょう?

 

 

こんな時、そこはかとなく居心地の悪さを覚えます。私にとって、女性役はどこまでいっても「女性役」なのです。必ずその色眼鏡、フィルター、属性が必要になる。

私は女性です。その事実、そのカテゴライズに違和感はない。けれども、「女性」を演じる時には、〇〇という1人の人物に対して、必ず「女性」という要素を特別に乗せるのです。女性であるにも関わらず。だから私は女性役をしたことを強く覚えている。

対して男性役の場合は、苦手だ苦手だと思いながらも意外とそのままで成立しちゃったりするのです。いわゆる「男らしい」男は難しくとも、普通の男は普通にしてれば成立するのです。「男性」要素を殊更に乗せなくとも、〇〇という人のことを素直に考えれば成立はするのです。

 

 

お芝居は、表現は、自由なもの。

であれば、別に役に性別など必要ないんじゃないか。もちろん時代や、置かれた立場の違いは考慮する必要はありますが。それすらも、〇〇を理解するための一つのパーツであって、どんな作品にも絶対に必要不可欠なものってことはないんじゃないかと思うのです。

同じ年齢でも色んな人がいるように。女性であっても、男勝りな女性でなく、性別要素がうっすい人がいたっていいんじゃないかと思うのです。

 

 

だけれども、観る人がいる以上、伝えるための「型」は必要で。

そんなにたくさんの観劇経験があるわけではないけれど…。女性役には、女性であることを殊更に強く要求されているような気がしたり。しなかったり。

わざわざ異性を演じるなんて、全員男か全員女の舞台くらいしか、私は知らなくて。プロの現場では、人が足らないから異性役、なんてことはたぶんなくて。

いや、要求されているわけではないのかもしれない。ただ、そうしておいた方が無難で、商品価値が担保されてて、観る人も安心で…。そういう、誰がいうでもない、暗黙の了解ですらない、無意識下の思い込みがあるんではないのかな。と、思ったり。思わなかったり。映像作品はそうでもないのだろうけれど、ね。

 

 

と、いうことをぼんやり考える今日この頃。

主義思想と、やっていることが違うこの矛盾。

 

 

実際別に、乗せる必要はなかったのかもしれません。これまでの作品でも。

乗せなきゃいけない、必要性がある役も確かにあったから、そこに後悔はないけれど。

必要のない役にまで、無意識に「女性」を乗せていた気がして、今更ながら後悔していたり。男性役の方が、真正面からその人と向き合っていたような気がして。今度女性役をすることがあっても、まずはフィルターをかけずに正面から向き合っていこう、と表明しておきます。

 

 

考えながらつらつら書くと何が言いたかったか忘れてしまいますね。まあだいたいいつも私の頭はこんな風に収拾がついてないので、何を考えていたかも風のように忘れていくのですが。

ではまた。

 

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ハムレット物語の記録②

こんにちは、かりんです。昨日書き進めていたこの記事、夜中に公開直前で下書きを保存せず閉じてしまい絶望しておりました。データの復旧もできず、記憶を頼りに何とか再度書き上げました。そんな苦労なんかも感じながらお目通しください笑。

 

 

さて、こちらの記事の続きです。↓

oha-k-arin.hatenablog.com

 

 

思うように稽古が進まずモヤモヤしていたところから、人任せにせず自分から行動せねばと心を入れ替えた矢先。また1人の降板が決まってしまったのです。この時点で本番から約2ヶ月前。幸か不幸か、稽古はまだほとんど進んでいない状態でした。

 

 

この事態を知るほんの少し前、私は演出さんとゆっくりお話する機会がありました。演出のしんどさ、演出兼出演者であることの大変さ、自分が「出演者側」であることに対してのモチベーションについて。話を聞く中で、きっと私が想像している以上に演出という立場、そして出演者を兼ねるということが重荷になっているのだと感じました。

正直自分が演出を変わった方が良いのではないか、とさえ思った。それは彼女に任せられないとか、自分がやった方がうまくいくとか、そういったことでは全くなくって。

 

 

人間誰しも、モチベーションには波があります。モチベーションが向かう先も、人によって違う。時期によっても違う。それはごくごく自然なことで。

私はその時も今でも、目の前の面白そうなことにモチベーションの矢印を全振りします。そして私にとっての面白そうなことは、第一義的に「自分が、日常の繰り返しではできないことを、実行する」ことです。だからこの時、私はこの作品に時間とエネルギーを注ぐだけのモチベーションがありました。

 

 

けれど全員がそうとは限らない。「モチベーションが低い」ということではなくても、他にしたいこと・やるべきことが多い人は、相対的にこの舞台にかけられる時間やエネルギーは減ってしまいます。時間も体力も有限なのだから。その中で、自分が割けるもの以上の役割を担うことになったら。

私なら、出演も含めて「舞台の制作側に立つことそのもの」が嫌になってしまうと思います。仕事でもなくただ好きでやっていることが重荷になってしまったら、やる必要がなくなってしまう。それを超えてでも得たいもの、その先の楽しさがあるなら良い。だけどもしもそうじゃなかったとしたら。彼女はこの作品が終わったあと、ここから去ってしまうのではないだろうかと、そんな思いが胸をよぎりました。

 

 

私にとっては、自分が思う「面白そうなこと」に関わってくれる仲間が減ってしまうことが1番寂しいし避けたいことでした。もちろん本人の意思を曲げてまで、と思っているわけではありません。誰しも自分の人生があり、自分にとっての大切なものがありますから。ただ、この作品が舞台を去る理由の一つになって欲しくはなかった。そうなるくらいなら、大変なことは私が全部引き受けよう。引き受けてもそう苦ではないくらいには、私の矢印はこの作品に向いていました。

 

 

とはいえ、本人からの申し出もないのに勝手に演出を変わることはできません。だから最後の決定権だけはなくとも、それ以外の自分が考え得る演出の仕事は言われなくてもこちらから手を出そうと決めました。そうは言いながらも、どこまで果たせていたかは疑問ですが。

もともと稽古が始まる前に、演出さんから個人的に「演出補佐をお願いしたい」と言われてはいました。ただ他のみんながそれを知っていたわけでもなく、また補佐というものがどこまで手出しをしていいのかも分からずほとんど何もしていませんでした。そのことを改めて思い出し、ここまで自分がいかに何もしてこなかったかを痛感しました。ただ落ち込んでいる時間もない。ここから私はフルスピードで動き出すことになります。

ハムレット物語の記録① - くぃあなかりんの日常。の最後の時期と重なっているかもしれません。

 

 

そこへ出演者二人目の降板。逆境に思えましたが、これが作品全体としては大きな転機となりました。キャスティングを変更することにしたのです。

この作品は登場人物が少ないこともあり、登場人物が重要な役割を担っています。そのため、主演以外は負担の大きさもほぼ横並びです。しかし、登場人物の「立ち位置」は当然ながら違っています。

当初、降板した方の配役は主人公ハムレットの母ガートルード。そして演出さんの配役はハムレットの敵クローディアスでした。演出としては中立、あるいは主人公側に立って全体を見渡す必要があり、一方で出演者として真逆に立つ必要もある。これも、演出さんの負担の一つになっていたようでした。その点、ガートルードは主人公の母であり敵の妻でもある。つまり中立に近い立場です。幸い、演出さんの中でガートルードの解釈はかなりはっきりしていたので、相談の上演出さんにガートルードを、そして新たに入ってもらう方にクローディアスをお願いすることにしました。

これで演出さんの負担の一欠片は解消できたのかなと思ったのですが・・・。ここから彼女はさらに日程を合わせることが難しくなり、相変わらず稽古は難航することとなるのでした。

 

 

もう一点、懸念材料がありました。

曲ができあがってこない。

作曲と主演を同じ方が兼ねていること、作曲が初めてであること、この時期にご本人の仕事が立て込んでいたこと等があり、かなり大変だったと思います。

ただミュージカルは性質上、曲なしでそのシーンの演出や芝居を先に完成させるというのは不可能に近いのです。おまけに作曲はやる気だけでできるようなものでもありませんし、作詞も含めるので脚本と同じ人が担当する方が齟齬がないということもあり、他の人が肩代わりすることができません。

 

 

なんとかできることはないかと考えた結果、私は譜面起こしをすることにしました。

正直、私が担当することで、効率自体はぐっと落ちたと思います。私は楽譜のルールはしっていますが読めるわけではありませんし、相対音感もかなり弱いです。半音違いであればどっちの音が高いのかも分からないレベルで、きっとご本人がやった方がかかる時間は短かったはず。それでも私が引き受けたのは、譜面起こしをしている時間を違う曲の作曲に当てて欲しいと思ったからです。それほど切羽詰まっている状況でした。

 

作曲さんから送られるアカペラの歌を何度も何度も聞き、一音ずつ譜面に起こしていく。♯や♭が多く、最初はかなり時間がかかりました。しかしそれも徐々に慣れていき、少しずつかかる時間が短くなっていきました。ここに、私にとっての思わぬ副産物、収穫がありました。

 

もともと私はピアノを習ってはいたのですが、譜面と音が全く結びついていませんでした。楽譜を見て音の上がり下がりの幅は理解していても、それが実際どんな音なのか、感覚としては分かっていないのです。その感覚が、少しずつ育っていく感覚があった。

だからといってすぐに自分の歌に反映させられるわけではありません。それに分かったからといって変わるわけでもない。ただ、分かっていないことには実践もできません。たった4曲の譜面起こしだけでどれだけ変わったかと言われると微妙ですが、続けたら成長に繋がりそうな手応えが、確かにありました。

(そんなわけで、今もこれは地道に続けています。何か譜面起こしのご希望があればご相談ください😊)

 

 

こうして曲のメロディラインやサイズが完成すると、ここから本格的に私の仕事が始まります。振付、です。

もともとお願いしたかった方が早々に降板となっており、どうしたものかと思っていたのですが…。なんとなく、ここは私の仕事だろうな、と直感的に思いました。

別に振付をしたことがあるわけでもなければ、ダンスが特別上手だということもありません。正式に「振付担当」だったわけでもありません。でも他で手いっぱいの方に任せるという選択肢は私の中にはありませんでしたし、いきなり高校生に丸投げするというのも気が引けました。

(やったらきっと作れる子だとは思うのですが、いかんせん時間がなく振付がしづらい曲でしたので。)

 

 

ただ、振付と言いながらも実質は曲中の演出に近いようなものだったので、私が土台だけを作り、稽古時に実際に動いてもらいながら固め、演出さんに確認してもらい最終決定、という流れでした。出演者からするとまどろっこしかったことでしょう。普段の作品だと、きちんと出来上がった振付を覚えたら完成、ですから。もしかしたら、手抜きのように思われていたかもしれません。

 

 

これには一応、私なりの理由がありました。各登場人物の「気持ち」を動きに反映させたかったのです。

ミュージカルでは、歌が登場人物の気持ちの変化を表すことが多々あります。制約があるとそれが難しくなったりすることはありますが、今回の作品では脚本兼作曲さんが「ミュージカルらしさ」を意識していることを聞いていました。

(単純にご本人がそういうものがお好きだということもあるでしょうが。)

だから歌だけでなく動きも、それに沿ったものにしたかった。そして登場人物の気持ちを一番知っているのは、私ではなく各出演者です。そのため私は動きを事細かに決めることなく、たびたび「好きに変えてくれていいからね、好きに動いてね」といったことを口にしていました。無茶ぶりともいえるもの、かもしれませんが、これは出演者が少数で、かつ全員の技量を私が信じていたからこそできたこと、です。きっと任せたほうが良いものができると、そうすることを意識的に選びました。

(ただそれは、後々出演者でもある自分自身の首を絞めることにもなるのですが…。)

 

 

こうして、私たちはやっと前に進み始めました。

ただし演出さんの不在に加え、出演者二人が稽古に参加できない状態は、相変わらず続いていました。

 

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