くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「女を演じる」ことについて。

あなたは自分の性別について考えたことがあるでしょうか。

LGBT」「セクマイ」なんて言葉が一般的に認知されてから随分経ちますから、意外と考えたことのある人も多いかもしれませんね。

というより、これだけよく聞くのですから、一度くらいは自分事として考えてみてもいーんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。

 

 

私は昔からそういうことをよく考えるたちではあったのですが、これまで一度たりとも自分を男だとも、男っぽいとも思ったことがありません。言われたこともありません。かといって女だ、と強く思うわけでもありませんが。女と呼ばれるから女。そういう人、多いと思います。不便さえ感じなければどっちだっていいのでね。

 

 

でもって、お芝居では男役・女役の両方、おおよそ同じだけの数の経験があります。役の重要度という意味でもそう大差ないように思います。

 

 

この前、こんなことがありました。

直近の本番後、みんなで振り返りというか、一言感想を言う機会が設けられました。

私はそこで「子ども役は多いけど男役はこれまであんまりなくて…」みたいなことを話したところ、そうか?というような声がちらほらあったんですね。それで試しに数え上げると、実際には半々だったのです。

大抵の場合、異性の役だったり、苦手な方(私は自分では男性役が難しいと思っています。)を強く覚えているもんじゃないでしょうか。

にも関わらず、なぜ女性役の方が多いように感じているのでしょう?

 

 

こんな時、そこはかとなく居心地の悪さを覚えます。私にとって、女性役はどこまでいっても「女性役」なのです。必ずその色眼鏡、フィルター、属性が必要になる。

私は女性です。その事実、そのカテゴライズに違和感はない。けれども、「女性」を演じる時には、〇〇という1人の人物に対して、必ず「女性」という要素を特別に乗せるのです。女性であるにも関わらず。だから私は女性役をしたことを強く覚えている。

対して男性役の場合は、苦手だ苦手だと思いながらも意外とそのままで成立しちゃったりするのです。いわゆる「男らしい」男は難しくとも、普通の男は普通にしてれば成立するのです。「男性」要素を殊更に乗せなくとも、〇〇という人のことを素直に考えれば成立はするのです。

 

 

お芝居は、表現は、自由なもの。

であれば、別に役に性別など必要ないんじゃないか。もちろん時代や、置かれた立場の違いは考慮する必要はありますが。それすらも、〇〇を理解するための一つのパーツであって、どんな作品にも絶対に必要不可欠なものってことはないんじゃないかと思うのです。

同じ年齢でも色んな人がいるように。女性であっても、男勝りな女性でなく、性別要素がうっすい人がいたっていいんじゃないかと思うのです。

 

 

だけれども、観る人がいる以上、伝えるための「型」は必要で。

そんなにたくさんの観劇経験があるわけではないけれど…。女性役には、女性であることを殊更に強く要求されているような気がしたり。しなかったり。

わざわざ異性を演じるなんて、全員男か全員女の舞台くらいしか、私は知らなくて。プロの現場では、人が足らないから異性役、なんてことはたぶんなくて。

いや、要求されているわけではないのかもしれない。ただ、そうしておいた方が無難で、商品価値が担保されてて、観る人も安心で…。そういう、誰がいうでもない、暗黙の了解ですらない、無意識下の思い込みがあるんではないのかな。と、思ったり。思わなかったり。映像作品はそうでもないのだろうけれど、ね。

 

 

と、いうことをぼんやり考える今日この頃。

主義思想と、やっていることが違うこの矛盾。

 

 

実際別に、乗せる必要はなかったのかもしれません。これまでの作品でも。

乗せなきゃいけない、必要性がある役も確かにあったから、そこに後悔はないけれど。

必要のない役にまで、無意識に「女性」を乗せていた気がして、今更ながら後悔していたり。男性役の方が、真正面からその人と向き合っていたような気がして。今度女性役をすることがあっても、まずはフィルターをかけずに正面から向き合っていこう、と表明しておきます。

 

 

考えながらつらつら書くと何が言いたかったか忘れてしまいますね。まあだいたいいつも私の頭はこんな風に収拾がついてないので、何を考えていたかも風のように忘れていくのですが。

ではまた。

 

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