くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「国民性」とはなんなのか。〜テセウスの船を切り口に〜

 

テセウスの船」というパラドックスを、知っているだろうか。

 

テセウスの船」という船がある。時を経て、船はどんどん老朽化していき、故障の度に部品を入れ替え、ついに全ての部品が交換されてしまった。

元のパーツが一つもないこの船は、果たして元の「テセウスの船」だと言えるのだろうか。テセウスの船をテセウスの船たらしてめているものは、一体何なのだろうか。

 

先日、ある研修を聴講した。テーマは「多文化共生」。国際交流から留学、移民の受け入れ等に関する内容で、少子高齢化や障害・性的少数者も絡めて話をされたので講義自体は大変面白かったのだが、その中で受講生からこんな感想があった。

「人口減少・少子高齢化で共生にばかり邁進することで、日本人が消滅するのではという危機感がある。日本人の暮らし向きがよくなるための手段として、人口(生産年齢)減少してもDX化等により社会が成立する様な施策により、日本人が排他的でない誇りを取り戻した先に共生を実現したい。」

(チャットで質問ができる方式だったため、原文そのままである。)

 

…今まで何を聞いてきたんや!?と言いたくなる感想なのだが、まあそれは一旦置いておいて。

 

日本人が消滅するのでは、という危機感。この言葉が指す「日本人」とは、一体何なのだろうか。一体「何が」消滅したら困るのか、「何が」日本人を日本人をたらしめているのか。

 

冒頭に戻ろう。

 

日本生まれ、日本育ち、日本国籍黄色人種がいる。時を経て、そういった人々がどんどん減っていき、労働力が足りないので代わりに外から来た移民や難民、外国人たちに日本国籍を与え、ついに全ての人が外国から来た人となった。この人たちは日本人だと言えるのか。この国は日本だと言えるのか。

 

この場合、テセウスの船と違うところが二つある。一つ目は、日本人であれ外国人であれ、パーツは常に入れ替わっているという点。そして二つ目は、パーツに意思があるという点。

 

私の、テセウスの船に対する回答はこうだ。

 

テセウスの船をテセウスの船たらしめているものは、周りの目である。船は船で意思がないので、乗る人が、見る人が、それをテセウスの船だと認識しているならばそれはテセウスの船であると言える。たとえ部品が変わっていようと、見た目が変わっていようと。仏像なんかを想像すると分かりやすいのではないだろうか。たとえ部品を変えたとしても、全て当時のものでなくなってしまったとしても。それを仏像だと信じ、祈り、助けを乞う人がいる限り、それは変わらず仏像であり続ける。

 

日本人が消滅することなど、国家が消滅しない限りはあり得ないと私は思う。確かに外国から来る人が増えれば、文化は摩擦で大きく変わっていくのかもしれない。だがそれは外国から人が来ずと起きること。日本人が今も昔も全く同じ精神を持っているかという点については甚だ疑問だ。変化の傾きが大きくはなるだろうが…。それもまた面白いこと。

 

どんな見た目であろうと、どんな背景を持っていようと。例え国籍を持っていなくても。周りが、そして本人が同じ日本人だと思えば日本人になるし、異国の者と思えばそうなる。それが良いことかどうかはこれまた疑問だが。

 

ということは。

 

人種や国籍に関係なく、「共に暮らす仲間」だと互いに認識すればそうなるわけで。結局は目に見えぬ人たちの集合体なんて、中身のない脆いものなのではないかと、私なんかは思うのですが、いかがでしょう。

 

これもまた狭いコミュニティに逆戻りする「ムラ」意識なのかもしれないと、思いつつ。

 

さあ、皆様はどう考えますか。聞いてみたいような、そうでもないような。

 

 

 

 

「盲目的な恋と友情」感想文

もし、自分にとっての大切な人が、この世にたった1人しかいなければ。

 

 

 

私も、こんな風になってしまうのだろうか。

 

 

 

そんなことを、ふと考えた、小説「盲目的な恋と友情」読了後の夜。

ネタバレありき、読んだ人にしか伝わらないであろう読書感想文。夏休みの宿題としては0点のそれを、つらつらと書き連ねてみる。ただいつまでも書き終わらない気もするので、とりあえず出してちょっとずつ書き進めていこうかな。

 

 

「恋」パート。

 

 

鮮烈な恋の始まり。最後のトリックのためもあってか、全編通してかなり主観的な目線で描かれており、だからこそ、その盲目さが際立つ。実際のところ、茂実は本当に蘭花に恋をしていたのかどうか、いつからなのか、それすらかなり怪しい。菜々子が、その怪しさが正しいことを証明してくれる。

 

 

この物語の元凶は、元を辿れば菜々子だ。

 

 

菜々子の動向やその胸の内は、茂実を盗られた(というか最初から手に入れてすらないのだが)、蘭花の目線でしか描かれない。だから、それが本当に正しいのかすら、分からない。ただ分かるのは、蘭花が「そう」受け取ったという、ただそれだけ。

 

 

蘭花の目線からは、茂実と、彼の恩師の妻である菜々子が寝ていたということ、そもそも蘭花と付き合い出したのも菜々子がきっかけらしいということ。そしてそれを茂実は隠しているということ。それから、茂実がかなり菜々子に依存しているということ。

ただ「友情」パートの留利絵を見ていると、蘭花のその受け取り、解釈すらも危ういように思えてくる。いや、小説はフィクションなのだから書かれていることが事実とするしかないのだけれど、それすら。一登場人物の見立てでしかないというのが、面白い。

 

 

こんなことが、現実に、身の回りに起きていたら。私の友人だったら、間違いなく止めているだろう。どう考えたって茂実みたいなのと一緒になったって幸せにはなれない。もし私が当事者だったら、きっと誰かが止めてくれる。止めてくれると信じられる友人達がいる。けれど。

 

 

蘭花にだって、いたのだ。そういう友人達も、親も。愛されて育ってきた子。それでも。どうにも逃げ出せなくなって雁字搦めになって、最後には相手に死んでもらうしかなくなった。そういう、どうしようもなさは、一体どこから来るのだろう。分からない。分からないけれど、分からないなりに追体験できるのが、小説の良いところで。なぜかは分からなくとも、私はそれを理解してしまうのだ。蘭花を通して。ああ、これは盲目になっても仕方がない、どこへもいけなくなっても仕方がない、と。

不思議で、とても面白くて、同時にとても怖いことだ。そんなこと、身の回りに起きてもらっちゃ困るな、と。

 

 

 

そして後編「友情」パート。

 

 

 

後編を読む事で、それぞれの視点での捻じ曲がった部分や、空白の部分が補完されていく。彼女が泣いた本当の理由。喧嘩の理由。それから、彼の死の真相と、彼女の最後の裏切り。蘭花は、最後のボタンを違えたばかりに裏切りにあったように見える。けれど彼女らの前には、もうずっと前から綻びがあったのだ。

 

 

もし、と思う。

 

 

もし、私に大切な人がたった1人しかいなかったら。こんな風に、身も心もボロボロになる羽目になるのだろうか。想像もできないけれど、だからこそ、考えるのだ。もし、と。

 

「幸せの青い鳥」を終えて。

劇団ミュージカルパーク定期発表会「幸せの青い鳥」、無事終演いたしました。ご来場いただいた皆様、公演にあたってご協力いただいた皆様、誠にありがとうございました。ご自身にとっての「青い鳥」について、ほんの少し、思いを巡らせていただけたなら幸いです。

 

 

さて、ここからは完全なる私の独り言であり、一緒に公演を作ってきた皆さんに宛てた私信であったりもします。お客様にとっては、観ていただいた結果が全てで、思うことも経過も、作品の中で伝わっていなければ、それはないも同然。だから、誰でも見られる形で残すのかどうか、少し迷ったのですが。口にするとさらりと流れてしまうたくさんの感謝と、今の私の胸の内をきちんと記しておきたく、ブログにアップすることにします。

 

 

まず先に、初めて挑戦した振付のことを少し。

 

 

今回、冒頭のクリスマスダンス、思い出の国へ、最終決戦の一部分を振付させてもらいました。この振りはこの人は踊れそうか、全員でこの動きはできそうか、立ち位置はこれでいいか、等々…。いろんなことを、これまで振付や指導をされているゆかちゃん、ちーちゃん、かおりさんに相談しながら、なんとか形にできました。説明力がないので、振り落としにも時間がかかること、かかること。初回の振り落としの日は毎回微妙に憂鬱で、終わった後はドッと疲れる。これを何年もずーっとされているお三方は本当にすごいなと、自分でやってみて改めて、尊敬と感謝の思いが湧いてきました。

そして、出演者の皆さんに心からの感謝を。頭でイメージしても思い通りにいくとは限らなくて、落としてから振りが変わって覚えなおしてもらうことも何度かあった。立ち位置に対しても振りに対しても、色々思うことはあったかもしれないけど。

私が思い描いた以上の絵が舞台上には広がっていて、それは当然、出ている皆さんの力でしかなくて。私の拙い説明、振りを、素敵なものに仕上げていただいて、本当にありがとうございます。

 

 

 

そしてここからは、「瞳」という役について。

 

 

 

台本を最初にもらった時、一番やりたいと思ったのが瞳でした。人によって見え方が違う存在。相手を映す存在。難しそうで、でもやりがいも大きそうな役。完全に一から作っていける役。そして何より、私がごくごく短い26年の人生の中でほんのわずかずつ学び取ってきて、今なお意識して学んでいる最中の、でも忘れがちで、大事にしたいことを象徴する存在のように思ったから。

 

 

だから、配役が決まった時は本当に嬉しかった。でも同時に、プレッシャーでもありました。瞳をやりたい人が他にもいたのを知っていたし、知っている以上に、やりたい人はたくさんいただろうなと思うから。台本の時点でやりたい人が多い魅力的なキャラクターである以上、演じた時にお客さんからして「魅力的だな」「つい見てしまうな」というところまで持っていくのが当然の最低ラインだろうなと思ったから。瞳の作り方次第では、この素敵なお話の中の大事なメッセージが、全く伝わらなくなってしまうことが分かったから。それでも、任せていただいたからには「かほにして良かった」と全員に納得してもらえるようにしたい、と思いました。

私は本当に、歴だけは長くて偉そうにアドバイスしたりもしているけれど、成長速度は亀のように遅くて、話の根幹に関わるような役をした回数は、実はそんなに多くありません。だから、他だったらもう10年にもなって「ここでこの子は頭打ち」となってもおかしくないところ、こんな風に今でも挑戦の場を与えていただけること、本当に感謝しかありません。

 

 

そしてもう一つ。「支える側」でいないと、というのも、最初はもう一つのプレッシャーでした。これは勝手に背負っていただけなのですが。

以前発表会で主演をさせてもらった時、明らかに私は「挑戦者」の側で、みんなに助けてもらって、支えてもらって、やっとの状態でした。本当はもっと引っ張らなきゃいけなかったと今でもずっと後悔しているのですが、あの時は自分のことだけを考えていてもまだ許された。

でも今回、一番重いものを背負う挑戦者は間違いなく主演の2人。私自身も挑戦者で、でも間違っても私が2人の足を引っ張るわけにはいかないから、2人が安心して自分のお芝居ができるように。もしできることなら、私がたくさんの人に支えてもらったように、ほんの少しでも2人の荷物が軽くなるように、高く飛べるように。そんなことを、ぼんやりと思っていました。まあそんな気を回さなくても、勝手にぐんぐん伸びていく2人だったので、こちらのプレッシャーはすぐ消えました。むしろ、とてもたくさん刺激をもらっていて。足は引っ張らずにすんだかな。

 

 

自分の役作りについての紆余曲折と結果は、ご覧いただいてきた通り。ただ、やっていく中ですごく面白いなと思ったことが。

 

 

最初、瞳の本当の正体が分かるシーンから逆算して、どのシーンでどこまで悪役感を出すか、ということを迷っていました。でも合宿の時に、一つ転機が。

二日間の2人の頑張りを見ていた私は、正直とても気持ちが穏やかというか、2人を応援する気持ちと「ここまできたんだな」と嬉しく思う、その気持ちのまま通しに挑んでしまいました。結局その気持ちは最後までうまく戻せず、最終決戦前もとてもやさしい気持ちのままでした。終わって「優しすぎたかな」と反省していると、とても良かったよと言われました。おや?おかしいな??

それを機に、あんまり「悪役っぽさ」を意識しないようにしました。それまでなんとなく自分の中でブロック分けして、悪役らしく見せたい時はこういう感じ、優しく見せたい時はこういう感じ、この人との時はこうしてこのセリフの時はこういう顔で…と、細かく切り分けて組み立てようとしていた全てを、一度全部取っ払って、「瞳の根っこはこういう思想のこういうキャラクターだ」ということだけを念頭に置くようにしてみました。

すると、そのあたりを境に、芝居が良くなったらしい。なぜかは分からない。瞳(というか私だけど)は最初から最後までひたすら「二人可愛い!大好き!頑張れ!」としか思っていなくて、意地悪な気持ちも怖がらせるつもりも一切ないのに、なぜか怖いと言われる複雑怪奇。女王様も猫も大好きとしか思っていないのに、苦手と言われ避けられる。なぜ??あれ、これってまさに瞳の心境?ちょっとしたアハ体験でした。

 

 

でね、なんでこんな話をしたかというと。

 

 

瞳の「相手を映す」って、その瞬間瞳の芝居をする私自身にも同じことが言えるんだなって思ったんです。私が内心「瞳をこういう役にしよう、こう見せよう」って考えて、行動したとしても、そう見えなかったら意味がない。それは間違いなくそうなんだけど、「そう見える」かどうかも、私が何をするかではなくて、見ている人の目に委ねられているんだなって。もちろんだからといって何をしても良いわけではなくて、意図があるならそう受け取ってもらえるような稽古や工夫は大前提として必要だけど、最終的には「どう見えるか」「どう見せるか」なんて考えていてもあんまり意味はなくて。私は私が思う瞳として、素直に2人と、そして舞台上のみんなと一瞬一瞬向き合ってみることが、瞳を演じるってことなんだろうなと。私にできたことはそれだけで。

 

 

だからね。どのシーンも同じ瞳に見えていたり、瞳の中に「たつみかほ」が見え隠れしたりしていたなら、それは単に私の力量不足なんだけど。

 

 

もしも、瞳がシーンによって違うように見えていたなら。悪役に見えたり良い人に見えたりしていたのならば。

 

 

それは、瞳と対峙しているチルチル・ミチルや、魔法使い、夜の女王、精霊たち、そしてその場にいる出演者全員が、瞳をそれぞれに「このシーンの瞳はこういう存在だ」と認識してそう扱ってくれたから。音や照明やストーリー展開で、「こういう存在だ」として分かりやすく示してくれたから。そして、その全部をお客さんが拾いあげて、瞳を各シーンごとに「こういう存在」として「見て」くれたからなのです。私だけでは絶対に成り立たない。衣装も変えていない、笑顔ベースなことも変わらない、瞳(私)自身の2人に対する胸の内も、反応はあっても2人のことが大好きだというベースは変わりません。その中で違うように見えたとすれば、間違いなく見ている人が、私に、そのシーンにあるべき瞳の姿を映してくれていたからだと思うのです。

 

 

くどくどと長くなりましたが、だから私の力はほとんどなくて、関わったぜーーーーーーんぶの方が作り上げてくれた「瞳」なんじゃないかなって、私は思っているのです。私自身は、難しいことは全部、一緒にシーンを作る皆さんと受け取るお客さんにお任せして、楽しくのびのびとやらせていただきました。本当に本当に、ありがとうございます。

 

 

次回は、さらにレベルアップできるように。引き続き精進していきたいなと思います。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

幸せって、何だろう⁇

人にはそれぞれ、大切なものがある。

 

 

夢、目標。思い出、未来。

家族、友達。

富、名声。正義、愛。

 

 

幸せでありたいと願わない人はいないだろうけれど、その幸せの形は様々だ。

 

 

例えば、自由であることや自分で自分の道を決めることに幸せを感じる人もいる。

それが不安で、人に決めてもらうことが幸せだと感じる人もいる。

 

 

今楽しければそれで良い人もいれば、もっと大きな目標に向かって努力することが幸せな人もいる。

 

 

自分を高めることに幸せを感じる人もいれば、人のために行動することに幸せを感じる人もいる。

 

 

そのどれもが正解で、尊重したいと思うけれど、本人が無自覚だと難しい。環境ももちろんあるし、持って生まれる性質もあるけれど、やっぱり最後に選んでいるのは自分なのだ。

 

 

でも、だからこそ、人が選んだ道は妨げたくない。何がどうあれ、選んでいるのは本人だから。

 

 

究極のオープンワールドな現実で。

 

 

遠い目標のためにただ一つの道を決めてまっすぐ進むのも、あちこち寄り道しながら歩くのも、どこへも行かずに近くに見える景色をただ楽しむのも、全部全部素敵なことだ。

 

 

迷うのも、悩むのも、苦しむのも、全部。

人に決めてもらうのも、言いなりになるのも、全部。

それを、自分で選ぶのも、立派な選択肢の一つ。

 

 

本音と言動が一致しないことなんて山ほどある。でもそれも、一致させないことを自分で立派に選んでいる。

 

 

毎日毎日、全部が小さな選択の連続で。でもそれがどこへ向かうのか、どこにも向かわないのか、本当は誰にも分からなくて。分からないから、迷う。情報の海の中、人の森の中、正解を求めて右往左往する。

 

 

でもね。

 

 

大事なもの一つ握りしめていれば、例えどんな道を選んでも、きっと行きたいところに行ける。幸せに辿り着ける。

 

 

私自身が本気でそう思っているからこそ、表面だけじゃない言葉尻じゃない「核」を、溢さずに届けたいなと思っている。

 

 

 

劇団ミュージカルパーク定期発表会

「幸せの青い鳥」

8月26日(土)13:30〜

滋賀県大津市生涯学習センターにて。

ぜひ、お越しください。

f:id:hakutomati:20230711194036j:image

 

 

(あれ、ただの長めな心のつぶやきのつもりで書き始めたんだけどな⁇いつから宣伝ちっくになったんだ、おかしいな⁇)

 

↓こちら、クリックして応援していただけると嬉しいです!

 

「陽キャ」「陰キャ」の定義

って、何で決まるんだろうかね。

 

 

性格?コミュニケーション力?友達の数?趣味?ヒエラルキー

 

 

私、この表現があんまり好きじゃない。まあ別に言われたら乗っかるし、どうしても嫌とか、言ってる人みんな嫌とか、そういうことではない。その場のノリとか、空気ってあるしね。何なら、自分でも言ってる時ある、かな。覚えてないだけで。

 

 

でも、あんまり好きではない。

 

 

陰陽ってさ、別にどっちかがダメとか、良い悪いとかじゃないじゃない?でもどうしても、陰陽だから➖➕の印象がついちゃってるの。私が。これは私がそう思ってるからこそ、なんだけど。外向、内向って言い方だと、ちょっと違う印象にならない?外と内だと、まあどっちでも良いか、みたいなね。

 

 

で。

 

 

私、自分が陰キャだとは思ったことないのよ。陰キャって言われるけど笑

別に言われることが嫌とかではないんだけど、何だろうな…。内向的だし、人見知りだし、オタク気質もあるけど、陰キャではないぞ?みたいな。まあこれは陰キャの一人相撲なのかもしれない。

 

 

言葉の定義って、とっても大事で。社会学では、基本中の基本です。だって、私が思う「陰キャ」と誰かが思う「陰キャ」が違ったら、Aさんが陰キャかどうか、なんて話はまずできない訳ですよ。「トマト」のことを、私はトマト缶のことだと思っていて他の人はミニトマトのことだと思っていたら、私にとってミニトマトはトマトじゃない、みたいなことになる。(ちょっと例えが上手じゃないけど。)

だから「陽キャ」「陰キャ」って何なんだろうな、と思った訳です。

 

 

私が思う陽キャ陰キャは。

 

 

陽キャ=1人が苦手。周りに人がたくさんいないと落ち着かない。常に人といないといけないと思っている。

 

陰キャ=誰かと一緒にいるのが苦痛。人に話しかけるのが苦手。必要な人との関わりができない。

 

 

おや?どっちもネガティブだな??🤔

 

 

そう、どっちの表現もあんまり好きじゃないんですよね…。まあ世の中の人を陰陽で二分するっていう前提ならそんなに嫌なわけじゃないし、私は間違いなく陰なのですが。

 

 

どっちも好きじゃないから、二分したくないなと思う。むしろ、人間の中に一部「陽キャ」って人と「陰キャ」って人がいると思っている。で、どっちも嫌い。

 

 

これは後付けで理由を考えてみたんですけど、陽のキャラクター、陰のキャラクター、の略じゃないですか。陰陽どっちかだけとか、どっちかじゃなきゃいけない、どっちかしかできない、みたいに思えて、それが嫌なんだと思います。

 

 

1人でいたら可哀想、とか、1人じゃ行動できない、とか。

 

助けが欲しい時にも他人に声をかけられない、とか、大勢で盛り上がってるのをバカにする、とか。

 

 

陽キャ陰キャって表現そのものに、自分と違う人をバカにするような、それ故に自分が逆の行動を取れなくなってしまうような、そんなニュアンスを勝手に感じていて、だからあんまり好きじゃないんだと思います。

 

 

まあ、どう考えても考えすぎなんですけどね。だから私の定義でいくと、私は陰キャじゃないんだよっていうささやかな主張でした。

 

 

みんなにとって、陽キャ陰キャの定義は何?聞いてみたいなぁ。

 

↓こちら、クリックして応援していただけると嬉しいです!

「他人にムカつく」には、素敵なことがつまっているらしい。

私は、仙人ではないので。

普通に生きていると、日々、他人に腹が立つことがあるわけで。

 

できたらそんなこととは無縁の、毎日ニコニコ☺️ハッピーライフを謳歌したいけれど、残念ながら現実はそう上手くはいかないわけで。

 

今日は、そんなイライラ・モヤモヤにも、メリットがあるかもしれないよ、という話。メリットがあれば、ムカついても「まあプラマイゼロむしろプラス!」って思える。かも、しれない。まあ、それでも無理な場合は無理なので、きっぱり諦めて存分に腹を立てよう。我々は仙人ではないので、ただの人間であることに誇りをもってイライラしよう。それはそれとして。

 

 

他人にムカつく原因って色々あるけど、今回取り上げる2つがこちら。

①「何でそんなこともできないの?」というイライラ

②「何で私だけ…」のイライラ

 

 

ありますか?私はめっちゃあります。あは。特に学生時代かな。でもね、これでも結構減ってきたんだよ。

 

 

①は、自分が当たり前にできることを、他人ができていないからこそのイライラ。これって見方を変えると、「他人ができないことを自分は当たり前にできている」ってことなんですよね。それって、めちゃくちゃすごいことだと思いませんか?

あ、そういえば似たようなことこっちでも書いてたな。↓書きなぐりだけど。

oha-k-arin.hatenablog.com

 

 

分かりやすい例を出すと、私は自分に対しても、他人に対してものすごく適当です。遅刻されても気にしない。待たされても全然平気。なんなら余裕ができてラッキー、まである。ドタキャンされても気にしない。連絡来なくてもまあいいか。

これ、きっちりしてる人からすると多分めちゃくちゃ腹立つと思うんですよ。「てめー人の時間奪ってんじゃねーぞ」ってなると思うんです。で、イライラしないための対処法としては、その人と次から会わないようにするとか、お説教するとか、まあ他にも色々あると思うんですけど。それはそれとして「時間守れる自分すごいな、才能だな」ってとこにね、気づいてあげて欲しいなって思うんです。

 

 

「そんなの当たり前、常識」って思うでしょ?でもね、しない人もいる。できない人もいる。私のような人間から見ると、きちんと約束を守れる、それ通りに行動できるってとってもすごいことです。「当たり前にできること」のハードルを、自分の中で下げてみる。そしたら自分の良いところがいっぱい見つかります。イライラさせてくる相手は、自分の良いところに気づかせてくれる存在。そう思ったら、イライラがちょっとだけ少なくなりませんか?

もちろん、それと相手に約束を守らせるかどうかという話は別ですよ。イライラしなくなったからといって、約束を破っていいってことにはならないですからね。でも世の中の問題の対処法って、たいていは相手を変えるか自分を変えるかのどちらか二つです。自分の見方を変える方が手っ取り早いなって、私は思うのですよ。

 

 

ちなみに私は、一人で行動できない人にイラッとします。今はあんまりないけど。「あなたと行きたい」は嬉しいけど「一人で行けないからついてきて」っていうのが、もう…。「は?私は興味ない勝手に行けよ」っていう。今でも、どんなに仲良しな人とでも一切興味のないところにはあんまり行きたくない。まあ興味の範囲が広いので、興味ないところってあんまりないんですけどね。そのイライラって、私は一人ででもあちこち行けるからこそイライラするのであって。それが難しい、できない、できてもハードルが高い人もいるよなって思ったら、あんまりイライラしなくなった。相手ができないんじゃなくて、私がすごいってことにしてる。

 

このあたりの「才能」「長所」という点に関しては、MBTIも関連してくるかも。本当にね、人ってびっくりするくらい違うんですよ。それを知っているだけでも、イライラは減る、かも。↓

oha-k-arin.hatenablog.com

 

まだP、Jに関する記事は書いていないけれど、他人に対して知覚機能を優先的に使うのはP。判断機能を優先的に使うのがJ。ざっくり言うと「知る」ことを優先するか、「決める」ことを優先するか、ですね。これを人との関係で当てはめると、Pは他人を受け入れようとする、Jは他人を変えようとするって感じかなぁ。だから私はきっとP。端的すぎる表現と昨今の風潮により、若干Jに対して悪意があるように見えるけど、もちろんそれぞれに良さがあって優劣はありません。さて、MBTIに関してはこの辺で切り上げて、本題に戻りましょう。

 

 

②は、自分がやりたくてできないことを他人がやっている、もしくは自分がやりたくなくてやっていることを他人がやっていないことに対するイライラ。

め~~ちゃくちゃ多いよね。なんならさっきの例に挙げた時間のやつも、人によっては②の場合もあったりするよね。「私は時間守っているのにお前は守らんのかい!」とか。

 

 

これねー、イライラのまんま放っておくの、とってももったいない。それから「だからお前もやれ」「だからお前もするな」になるのも、本当にもったいない。

 

 

「ムカつく」「腹立つ」を無理やり解消する必要はないけれど、あんまりイライラして過ごすのって、周りだけじゃなくて自分も普通に気分良くないじゃないですか。かといって、人に当たっても後から後悔したりする。そんな時にね、ちょっとだけ立ち止まって「なんでかな」って考えてみる。イライラする機能が人間に備わっているってことは、きっと人間にとって必要な機能なんです。

私、だいたいお腹がすくと気が短くなります。ちょっとしたことでイラッとします。(子どもか?)それって、「お腹すいたよ」「食べないと死んじゃうよ(は、大げさだけど)」を、身体がイライラを通して教えてくれてるわけです。

 

 

ってことはですよ?

 

 

「イライラする」には、何かしら「私はこうしたい」っていう願望がつまっている。イライラをイライラのまま終わらせるの、とってももったいないのです。

タイトルに「他人にムカつく」と書いたけれど、基本的に感情って自分の中にあるものなので、何か自分の中に願望があって、それが叶っていないがためにその願望が「他人に対するイライラ」に姿を変えていることが往々にしてあるんです。

 

 

例えば。

 

 

これ、幼稚すぎてほんっと書きたくないんだけれど……。

私、大学の喫茶店サークルで代表(部長的なやつ)をしてたんですね。

土日だけの営業なんですけど、土日なんかみんなバイトも入れたいじゃないですか。なかなかシフトに入ってくれる子がいなくて、私を含めた一部の人ばかりが入っている時期があって、めちゃくちゃイライラしてたんですよ。忙しいのもお金稼ぎたいのも分かるけど、こっちも忙しいんだからせめて月一くらい入れてよ‼って。私も日曜には毎週ミュージカルの稽古があったけれど、締め作業までやると間に合わなくて、ほぼ毎回稽古に遅れて行ってた。

 

 

でもね。

 

 

別にちょっとくらい早くお店閉めたり、臨時休業したって良かったんです。誰が困るわけでもないし。現に私が卒業してからのどこかの代は、結構臨時休業のお知らせをよく見かけた。でもその代わり新しいメニュー出したり、イベント開いたり、色々積極的な取り組みもしてたみたい。私がイライラしてたのは、ただ自分が、稽古の開始時間に遅れる状況が嫌だっただけなのです。それなのに、誰に言われたわけでもないのに「お店を閉めちゃいけない」って思いこんでいただけなのです。

当時これに気づけていたら、「しぶしぶ、嫌な気持ちで毎週末営業する」のではなく「営業はたまにでもいいから、前向きに楽しいお店づくりをする」ということができたのではないかな、と今でも少し後悔しています。でも、今気づいている私はラッキー。来年じゃなく、明日でもなく、今気づいているのだから。「今」が一番早いですからね。

 

 

イライラの理由。そこには、自分の願いが、欲望が隠れています。気づくことができたら、それを自分で叶えてあげられたら。今よりちょっとだけ、豊かな毎日が過ごせる。

かも、しれません。

 

 

↓こちら、クリックして応援していただけると嬉しいです!

誰かにならなきゃ、が、誰かになりたい、に変わる時

たまには、お芝居メインの話もしようかな。

(カテゴリー作ってるのに全然書いてない。)

そう言いつつ、結局どこに行きつくかは分からないけれど。

 

 

誰しも、それを一番最初に始めたきっかけ、というのがあると思うのですが。

私、芝居がしたくなったきっかけ、全く覚えていないのですよねぇ。どうしてやろうと思ったの?って、よくある質問じゃないですか。特に芝居をやってる、なんて言うと、たいていこれを聞かれる。別にそんな珍しくもすごくもないと思うんだけど、スポーツとかと比べるとやっぱり不思議みたい。

 

 

でも、いつも答えられない。なんでだったかなぁ。

 

 

入学した高校にね、部活がなかったんですよ。演劇部が。だから、今の劇団に入ることになったんだけれど…。なぜ演劇部に入りたかったのか、と聞かれると、ちょっと困る。だからいつもはぐらかす。答えになっていないと自覚しつつ、劇団に入った理由を答えている。

 

 

たぶんね。

ああ、「今考えてみると」だから、当時の自分が本当はどうだったのかは分からないのだけれど。(過去を再構築するとってやつですね。)

 

 

私は、自分じゃない誰かになりたかった。

そしてその「なりたかった」は、決してポジティブな理由ではない。

 

 

タイトルに書いたように「なりたい」に見せかけた「ならなきゃ」だったんじゃないかな、と思うのです。「have to」じゃなくて「want to」。もちろん当時から「ならなきゃ」っていう自覚があったわけではなくて、その時には本当に誰かになりたくて、だから今でも、自分じゃない誰かに「なりたかった」からだと、当時のことを表現する場合がほとんどなのだけれど。それは、他に自己表現の手段がない、自分のままではうまく外に表現ができない、後には引けない、自分を捨てたい。そんな焦燥感や逃げから生まれる、切実な「なりたい」だったような気がするのです。だから、役者になりたいとか、大きな舞台に立ちたいとか、そんな思いは本当はなくて。むしろ「そう思わなきゃいけない」と思っていたのかもしれない。野球部入るからには甲子園目指すって言っておいた方が良いかな、みたいな。そんな感じ。口ではたまに「役者したい」とか言ってたこともあったかもしれないけれど、そうなった自分とか、それに向けて行動する自分とかは、考えてみてもあまりイメージが湧かなかった。動機が動機だったから、余計にね。

 

 

だけどそれが、少しずつ変わっていった。

 

 

本当に根っこからガラっと変わったのは、実はここ2~3年の話かもしれません。でもその2~3年の出来事だけで急に変わったわけではなくて。これまでの積み重ねによる変化が、やっと表に出てきたのがここ2~3年なんだなって感じ。

 

 

私は今、心から、誰かに「なりたい」と思っている。

「have to」ではなく「want to」で。別に、今の私で良い。そこに何の不足も、問題もない。ただただ、誰かになるということが、素直に心から「楽しい」と思える。

 

 

やっと、スタートライン。遅すぎるスタートライン。だけどそこに立てたことが、とっても嬉しい。色んな人との出会い、奇跡が重なって、ここに今立てているんだなって。

 

 

どこ目線とか、何を目指すかとか、目的によって違うと思うんですけど。私は、お芝居って結局「自分」なんだなって、思うんです。あ、経験したことじゃないとできないとか、自己主張するとか、そういう類の話ではなくってですよ?自分が嫌いで他人になりたいと思っても、それって絶対どこかで綻びが出る。だってどこまでいっても、どんなに努力を重ねて技術を学んで場数を踏んでも、自分が自分である、という事実が変わることはない。自分を役で塗り固めても、自分は自分でしかない。そこは変わらない。本質的に誰かになる、なんてことは絶対にあり得ない。それを認めたうえで、誰かに「なってみる」「なろうとする」ことが、芝居の面白さだなって私は思います。

 

 

まあこれが「人に良いものを見せる」とか「芝居で身を立てる」とかになると、だいぶ観点が変わってくるでしょうけどね。「芝居をすること」と「芝居で何かを成し遂げること」では全然意味合いが違うので。「芝居で、嫌いな自分以外の誰かになること」が目的化すると、それは不可能なのでろくなことないよって話でした。

 

 

でも結構いそうな気がするんだよなぁ、そういう人。中学高校の弱小演劇部とかって結構そういう雰囲気の人多そう…。ごめんね、これは偏見かもだけど。思春期に「他人になる行為」って、自分が嫌いな人には魅力的に映りやすいのかなって。まあ自分も含めて、なんだけどね。

 

 

まあそんなこんなで、今が私は一番楽しい。変わるきっかけになった劇団のこと、いろんな出会いのこと、とか、もうちょっと書きたいことあったんだけどね。長くなりそうなので、また今度。

 

 

↓こちら、クリックして応援していただけると嬉しいです!