くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

我が家の食卓からSDGsを考えてみる。

なんて大層なタイトル。ただの愚痴です。

 

 

昨今流行っている「SDGs」という言葉。中身を見ると全部前々から言われてきていることではあるので、「あまり意味がない」「言葉だけで中身が伴わない」とされることも多い。

ただ、改めてキャッチーな言葉にすることで広い層の目に触れるようになるので、この流行もそう無意味なものではないのでは、と私自身は思っている。それ自体には中身がなくとも。

 

 

ところで、我が家の夕食では、毎食かなりの残飯が出る。これは、SDGs推進の観点から考えると由々しき事態である。

毎度父親は「もったいない」「食べなあかんやろ」「捨てるのか」と連呼し、前日の夕食の残りを食べるのが見慣れた光景である。ちなみに父親は割と社会派なので、SDGsのことを持ち出してきて「食べろ」と言うこともある。

作る量や品数を減らせばすぐに解決するような気がするが、そういうわけにもいかない。足りないと父親の機嫌が悪くなるので、それを回避するため十分すぎる食事が日々食卓に並ぶのである。

 

つまり、父親の機嫌を損ねないための多すぎる食事が、父親の機嫌を損ねているという厄介な状況なのだ。

 

 

私の言葉はあまり通じないので口にはしないが(正確に言うと時々試みては響かずに挫折するのだが)、これは矛盾ではなかろうか。

本当に持続可能な社会を目指すなら、世界の食卓を思うなら、そもそも購入する食材を減らすべきで、わざわざ必要以上に購入し必要以上に、それもお腹を壊すまで食べる必要が一体どこにあるというのか。

 

確かに捨てるのは良くない。それはそうだ。捨てたものが何か巡り巡って地球のゴミを増やしたり汚染したり環境を破壊したりするのやもしれん。よく知らないが。

 

だからと言ってお腹に詰め込めばいいということではない。私のお腹は決してゴミ袋ではないのだから。

 

いやそんな言い方は大変に失礼だ。もちろん食事は美味しい。好き嫌いはあるがまあでも美味しいことに変わりはない。手間をかけて作ってくれる母親には感謝もしている。それはそうなのだが、お腹を壊してしまったら美味しいも何もない。

 

食事はまず第一に栄養補給だ。生物として必要な栄養を取る。そこに、人間は美味しさだとか雰囲気とかマナーとか映えとかコミュニケーションとか食育とか色んな文化を付け足している。それは良い。

それは良いが、お腹がいっぱい、必要十分な栄養が取れているにも関わらず、他の文化的要素のために食べ続けた結果体調を崩すというのは、完全に生物として逸脱した異常行為ではないのか。

持続可能な社会とは、全ての生物にとっての持続可能な社会である。つまり、我々人間は持続可能な社会のために人間的文化の少しを手放し、共に生物として手を取り合う必要があると、私は思うのだ。

 

 

これは一体何の話でしたでしょうか。

要するに食事を減らして欲しいという、私の心の叫びです。それ以上でも以下でもありません。

 

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