くぃあなかりんの日常。

私を彩る、宝石と傷跡の詰め合わせ。綴る言葉が宝箱となりますよう。

「陽キャ」「陰キャ」の定義

って、何で決まるんだろうかね。

 

 

性格?コミュニケーション力?友達の数?趣味?ヒエラルキー

 

 

私、この表現があんまり好きじゃない。まあ別に言われたら乗っかるし、どうしても嫌とか、言ってる人みんな嫌とか、そういうことではない。その場のノリとか、空気ってあるしね。何なら、自分でも言ってる時ある、かな。覚えてないだけで。

 

 

でも、あんまり好きではない。

 

 

陰陽ってさ、別にどっちかがダメとか、良い悪いとかじゃないじゃない?でもどうしても、陰陽だから➖➕の印象がついちゃってるの。私が。これは私がそう思ってるからこそ、なんだけど。外向、内向って言い方だと、ちょっと違う印象にならない?外と内だと、まあどっちでも良いか、みたいなね。

 

 

で。

 

 

私、自分が陰キャだとは思ったことないのよ。陰キャって言われるけど笑

別に言われることが嫌とかではないんだけど、何だろうな…。内向的だし、人見知りだし、オタク気質もあるけど、陰キャではないぞ?みたいな。まあこれは陰キャの一人相撲なのかもしれない。

 

 

言葉の定義って、とっても大事で。社会学では、基本中の基本です。だって、私が思う「陰キャ」と誰かが思う「陰キャ」が違ったら、Aさんが陰キャかどうか、なんて話はまずできない訳ですよ。「トマト」のことを、私はトマト缶のことだと思っていて他の人はミニトマトのことだと思っていたら、私にとってミニトマトはトマトじゃない、みたいなことになる。(ちょっと例えが上手じゃないけど。)

だから「陽キャ」「陰キャ」って何なんだろうな、と思った訳です。

 

 

私が思う陽キャ陰キャは。

 

 

陽キャ=1人が苦手。周りに人がたくさんいないと落ち着かない。常に人といないといけないと思っている。

 

陰キャ=誰かと一緒にいるのが苦痛。人に話しかけるのが苦手。必要な人との関わりができない。

 

 

おや?どっちもネガティブだな??🤔

 

 

そう、どっちの表現もあんまり好きじゃないんですよね…。まあ世の中の人を陰陽で二分するっていう前提ならそんなに嫌なわけじゃないし、私は間違いなく陰なのですが。

 

 

どっちも好きじゃないから、二分したくないなと思う。むしろ、人間の中に一部「陽キャ」って人と「陰キャ」って人がいると思っている。で、どっちも嫌い。

 

 

これは後付けで理由を考えてみたんですけど、陽のキャラクター、陰のキャラクター、の略じゃないですか。陰陽どっちかだけとか、どっちかじゃなきゃいけない、どっちかしかできない、みたいに思えて、それが嫌なんだと思います。

 

 

1人でいたら可哀想、とか、1人じゃ行動できない、とか。

 

助けが欲しい時にも他人に声をかけられない、とか、大勢で盛り上がってるのをバカにする、とか。

 

 

陽キャ陰キャって表現そのものに、自分と違う人をバカにするような、それ故に自分が逆の行動を取れなくなってしまうような、そんなニュアンスを勝手に感じていて、だからあんまり好きじゃないんだと思います。

 

 

まあ、どう考えても考えすぎなんですけどね。だから私の定義でいくと、私は陰キャじゃないんだよっていうささやかな主張でした。

 

 

みんなにとって、陽キャ陰キャの定義は何?聞いてみたいなぁ。

 

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「さみしい」について。「気持ち」について。

今日は、とってもさみしいの気分だったのだ。なんでかな。

さみしいって、一等不思議で、奥が深くて、素敵な感情だなと思う。

 

 

ポジティブか、ネガティブかの二択になると、ネガティブな感じもする。でも「さみしい」って、澄んだ水色で、透明で、ガラス玉でキラキラで、綺麗だなと思う。

 

 

さみしいも、切ないも、可愛いも、愛しいも、「胸がぎゅっとなる」感じがしませんか?というか、そういう表現て結構よくあると思うんです。でも、言葉直すと全然違う印象になる。それが不思議。それが楽しい。

私の体感では、結構近い。さみしいと悲しいより、さみしいと可愛いの方がまだ近い。悲しいは、全然違っている。体感を、どう言葉に出力するかって、たぶん人によって違うから、聞いてみたいなと思う。

 

 

私は、結構「楽しい」と「さみしい」はトップでよく使っている気がするな。使っているというのは、自分の頭の中で感情をかたどる時にその言葉を使っているのであって、外部に見える形で表現しているわけではないけれど。

 

 

「嬉しい」とか「感動した」とか「悲しい」とかあんまり使わない。なんでかな。使わないというか、あんまり分からない?かも。うん。なんか、何だろうね。しっくりこない。言葉と気持ちが結びつかなくて難しい。「ショック」は分かる。「恐怖」も「絶望」も分かる。どっちもよく「頭が真っ白になる」って表現されるよね。だからつかみやすいのかも。でも「悲しい」はよく分からない。深い青、海、とかかな。うーん、難しい。あんまりない。「悲しい」の身体表現があると、理解できるのかなぁ。

 

「嬉しい」も、なんだろうね、体感と語呂とか言葉の響きがなんか合わなくて、使わない。「嬉しい」って、「あったかい」「ほわほわ」「じんわり」「ニコニコ」って感じな気がしてて、でもそういう「あったかい幸せ」みたいのが、私の中にはあんまりなくて。「キラキラ」「パーッ」「わ~~」みたいなのが多くって、それを「嬉しい」と表現する人も多分いると思うんだけど、私の中では「嬉しい」はそれじゃないんだよな…。だから「楽しい」が頻出するんだと思う。美味しいもの食べても、プレゼントもらっても「楽しい」なんだよな。「ムカつく」よりは「腹立つ」だな。「怖い」より「恐怖」かな。

 

 

単に言葉の意味間違ってるだけじゃね?って感じするよね。私も思ってる。でもだから、出力して人に伝える時には伝わる言葉に変換してるわけで。コミュニケーションに支障があるわけではないので、自分の中でくらいしっくりくる言葉を使いたい。

そうだ、「赤」と似てる。

トイレで、赤と青のピクトグラムあったらだいたい赤が女子トイレと思うやん?でも戦隊もので赤って絶対リーダーで、男じゃん?って言いきるとご時世的にあれかもだけど、まあそんな感じ。状況で変わるのよ、赤のイメージ。ああいや、ちょっとあんまりうまくない例えかも。

 

 

いい加減、「さみしい」に戻ろう。

 

 

同じ「胸がぎゅっとなる」組の切ないとか可愛いとか愛しいとどう違うのかな、と考えてみた。これも言語化が難しかった。「可愛い」は、ぎゅっとなる+キラキラの粉ふりまいてる感じだからちょっと違うかなと思ったんだけど、後の3つは、マジで分からん。出所と文脈が違うから言葉が違うだけで、現に湧いてくる体感は同じというか。それを言い出すと同じ「さみしい」でもいろんなパターンがあるわけで。うーーーん、分からん。

 

 

今朝の現象について振り返ってみる。特段「さみしい」に至るような出来事はなかった。いつもの通りギリギリに起き、いつもの通り電車に乗り会社に行き、先輩方と雑談をし、さあ数字のチェックをしようと電卓を手にして計算をしている時に、「あ、これはさみしいだ」と何の前触れもなく思ったわけである。なんで???いや、単に「さみしい」を当てたのが間違いだった可能性もある。でも「さみしい」を当てようと思った何かしらの理由があるはずなのだ。気になる。なんで今私はこれを「さみしい」だと思ったのだろう?そんなことを考えていたら、今日という一日が終了したのである。なんという生産性のなさ。ちなみにその時の「さみしい」は、お昼前には消えていた。その瞬間の気持ちを思い出すのも再現するのも、雲をつかむようなものだ。消えてしまった「さみしい」の代わりに謎だけが残されたため、私はこうしてブログを書くに至ったわけである。

 

 

思い出せる限りで書くと…さみしいからといって、誰かに会いたいとか、何かしたいとか、どこか行きたいとか、そういうものは全くなくて。ただただ「あ、胸がぎゅっとしたなぁ」とか、そんな感じ。だった気がする。対象がないのに「愛しい」も「切ない」も変だし、消去法で「さみしい」だと思ったのかな。でも他にもっと良いのがあるような気がしないでもない。うーーん

やっぱりわからん。要検討。

 

 

 

……と、こんな思いつきをつらつらと書いているとあっという間に2,000字到達してしまうのだから恐ろしい。Twitterのつぶやきなんかで収まるわけがない。あと、ざっと読み返したらマジで何の話か分からなさすぎる。語彙が特別多いわけでは全然ない覚え間違えも実は結構多いんだけど、なんていうか、言ってることオタクっぽい…?言葉オタク?いや、でももっとすごい人たくさんいるからな。私はたぶんすべての分野において超ライトなオタクなんだと思う。気質はオタクだけど突き詰める集中力と持久力がないもので。全ガチオタクを尊敬するよ本当に。

過去一何の話か分からんけど、眠いのでこのあたりで。そろそろちゃんと推敲した記事書きたい。たぶんこれ前も言ってた。

 

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「他人にムカつく」には、素敵なことがつまっているらしい。

私は、仙人ではないので。

普通に生きていると、日々、他人に腹が立つことがあるわけで。

 

できたらそんなこととは無縁の、毎日ニコニコ☺️ハッピーライフを謳歌したいけれど、残念ながら現実はそう上手くはいかないわけで。

 

今日は、そんなイライラ・モヤモヤにも、メリットがあるかもしれないよ、という話。メリットがあれば、ムカついても「まあプラマイゼロむしろプラス!」って思える。かも、しれない。まあ、それでも無理な場合は無理なので、きっぱり諦めて存分に腹を立てよう。我々は仙人ではないので、ただの人間であることに誇りをもってイライラしよう。それはそれとして。

 

 

他人にムカつく原因って色々あるけど、今回取り上げる2つがこちら。

①「何でそんなこともできないの?」というイライラ

②「何で私だけ…」のイライラ

 

 

ありますか?私はめっちゃあります。あは。特に学生時代かな。でもね、これでも結構減ってきたんだよ。

 

 

①は、自分が当たり前にできることを、他人ができていないからこそのイライラ。これって見方を変えると、「他人ができないことを自分は当たり前にできている」ってことなんですよね。それって、めちゃくちゃすごいことだと思いませんか?

あ、そういえば似たようなことこっちでも書いてたな。↓書きなぐりだけど。

oha-k-arin.hatenablog.com

 

 

分かりやすい例を出すと、私は自分に対しても、他人に対してものすごく適当です。遅刻されても気にしない。待たされても全然平気。なんなら余裕ができてラッキー、まである。ドタキャンされても気にしない。連絡来なくてもまあいいか。

これ、きっちりしてる人からすると多分めちゃくちゃ腹立つと思うんですよ。「てめー人の時間奪ってんじゃねーぞ」ってなると思うんです。で、イライラしないための対処法としては、その人と次から会わないようにするとか、お説教するとか、まあ他にも色々あると思うんですけど。それはそれとして「時間守れる自分すごいな、才能だな」ってとこにね、気づいてあげて欲しいなって思うんです。

 

 

「そんなの当たり前、常識」って思うでしょ?でもね、しない人もいる。できない人もいる。私のような人間から見ると、きちんと約束を守れる、それ通りに行動できるってとってもすごいことです。「当たり前にできること」のハードルを、自分の中で下げてみる。そしたら自分の良いところがいっぱい見つかります。イライラさせてくる相手は、自分の良いところに気づかせてくれる存在。そう思ったら、イライラがちょっとだけ少なくなりませんか?

もちろん、それと相手に約束を守らせるかどうかという話は別ですよ。イライラしなくなったからといって、約束を破っていいってことにはならないですからね。でも世の中の問題の対処法って、たいていは相手を変えるか自分を変えるかのどちらか二つです。自分の見方を変える方が手っ取り早いなって、私は思うのですよ。

 

 

ちなみに私は、一人で行動できない人にイラッとします。今はあんまりないけど。「あなたと行きたい」は嬉しいけど「一人で行けないからついてきて」っていうのが、もう…。「は?私は興味ない勝手に行けよ」っていう。今でも、どんなに仲良しな人とでも一切興味のないところにはあんまり行きたくない。まあ興味の範囲が広いので、興味ないところってあんまりないんですけどね。そのイライラって、私は一人ででもあちこち行けるからこそイライラするのであって。それが難しい、できない、できてもハードルが高い人もいるよなって思ったら、あんまりイライラしなくなった。相手ができないんじゃなくて、私がすごいってことにしてる。

 

このあたりの「才能」「長所」という点に関しては、MBTIも関連してくるかも。本当にね、人ってびっくりするくらい違うんですよ。それを知っているだけでも、イライラは減る、かも。↓

oha-k-arin.hatenablog.com

 

まだP、Jに関する記事は書いていないけれど、他人に対して知覚機能を優先的に使うのはP。判断機能を優先的に使うのがJ。ざっくり言うと「知る」ことを優先するか、「決める」ことを優先するか、ですね。これを人との関係で当てはめると、Pは他人を受け入れようとする、Jは他人を変えようとするって感じかなぁ。だから私はきっとP。端的すぎる表現と昨今の風潮により、若干Jに対して悪意があるように見えるけど、もちろんそれぞれに良さがあって優劣はありません。さて、MBTIに関してはこの辺で切り上げて、本題に戻りましょう。

 

 

②は、自分がやりたくてできないことを他人がやっている、もしくは自分がやりたくなくてやっていることを他人がやっていないことに対するイライラ。

め~~ちゃくちゃ多いよね。なんならさっきの例に挙げた時間のやつも、人によっては②の場合もあったりするよね。「私は時間守っているのにお前は守らんのかい!」とか。

 

 

これねー、イライラのまんま放っておくの、とってももったいない。それから「だからお前もやれ」「だからお前もするな」になるのも、本当にもったいない。

 

 

「ムカつく」「腹立つ」を無理やり解消する必要はないけれど、あんまりイライラして過ごすのって、周りだけじゃなくて自分も普通に気分良くないじゃないですか。かといって、人に当たっても後から後悔したりする。そんな時にね、ちょっとだけ立ち止まって「なんでかな」って考えてみる。イライラする機能が人間に備わっているってことは、きっと人間にとって必要な機能なんです。

私、だいたいお腹がすくと気が短くなります。ちょっとしたことでイラッとします。(子どもか?)それって、「お腹すいたよ」「食べないと死んじゃうよ(は、大げさだけど)」を、身体がイライラを通して教えてくれてるわけです。

 

 

ってことはですよ?

 

 

「イライラする」には、何かしら「私はこうしたい」っていう願望がつまっている。イライラをイライラのまま終わらせるの、とってももったいないのです。

タイトルに「他人にムカつく」と書いたけれど、基本的に感情って自分の中にあるものなので、何か自分の中に願望があって、それが叶っていないがためにその願望が「他人に対するイライラ」に姿を変えていることが往々にしてあるんです。

 

 

例えば。

 

 

これ、幼稚すぎてほんっと書きたくないんだけれど……。

私、大学の喫茶店サークルで代表(部長的なやつ)をしてたんですね。

土日だけの営業なんですけど、土日なんかみんなバイトも入れたいじゃないですか。なかなかシフトに入ってくれる子がいなくて、私を含めた一部の人ばかりが入っている時期があって、めちゃくちゃイライラしてたんですよ。忙しいのもお金稼ぎたいのも分かるけど、こっちも忙しいんだからせめて月一くらい入れてよ‼って。私も日曜には毎週ミュージカルの稽古があったけれど、締め作業までやると間に合わなくて、ほぼ毎回稽古に遅れて行ってた。

 

 

でもね。

 

 

別にちょっとくらい早くお店閉めたり、臨時休業したって良かったんです。誰が困るわけでもないし。現に私が卒業してからのどこかの代は、結構臨時休業のお知らせをよく見かけた。でもその代わり新しいメニュー出したり、イベント開いたり、色々積極的な取り組みもしてたみたい。私がイライラしてたのは、ただ自分が、稽古の開始時間に遅れる状況が嫌だっただけなのです。それなのに、誰に言われたわけでもないのに「お店を閉めちゃいけない」って思いこんでいただけなのです。

当時これに気づけていたら、「しぶしぶ、嫌な気持ちで毎週末営業する」のではなく「営業はたまにでもいいから、前向きに楽しいお店づくりをする」ということができたのではないかな、と今でも少し後悔しています。でも、今気づいている私はラッキー。来年じゃなく、明日でもなく、今気づいているのだから。「今」が一番早いですからね。

 

 

イライラの理由。そこには、自分の願いが、欲望が隠れています。気づくことができたら、それを自分で叶えてあげられたら。今よりちょっとだけ、豊かな毎日が過ごせる。

かも、しれません。

 

 

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誰かにならなきゃ、が、誰かになりたい、に変わる時

たまには、お芝居メインの話もしようかな。

(カテゴリー作ってるのに全然書いてない。)

そう言いつつ、結局どこに行きつくかは分からないけれど。

 

 

誰しも、それを一番最初に始めたきっかけ、というのがあると思うのですが。

私、芝居がしたくなったきっかけ、全く覚えていないのですよねぇ。どうしてやろうと思ったの?って、よくある質問じゃないですか。特に芝居をやってる、なんて言うと、たいていこれを聞かれる。別にそんな珍しくもすごくもないと思うんだけど、スポーツとかと比べるとやっぱり不思議みたい。

 

 

でも、いつも答えられない。なんでだったかなぁ。

 

 

入学した高校にね、部活がなかったんですよ。演劇部が。だから、今の劇団に入ることになったんだけれど…。なぜ演劇部に入りたかったのか、と聞かれると、ちょっと困る。だからいつもはぐらかす。答えになっていないと自覚しつつ、劇団に入った理由を答えている。

 

 

たぶんね。

ああ、「今考えてみると」だから、当時の自分が本当はどうだったのかは分からないのだけれど。(過去を再構築するとってやつですね。)

 

 

私は、自分じゃない誰かになりたかった。

そしてその「なりたかった」は、決してポジティブな理由ではない。

 

 

タイトルに書いたように「なりたい」に見せかけた「ならなきゃ」だったんじゃないかな、と思うのです。「have to」じゃなくて「want to」。もちろん当時から「ならなきゃ」っていう自覚があったわけではなくて、その時には本当に誰かになりたくて、だから今でも、自分じゃない誰かに「なりたかった」からだと、当時のことを表現する場合がほとんどなのだけれど。それは、他に自己表現の手段がない、自分のままではうまく外に表現ができない、後には引けない、自分を捨てたい。そんな焦燥感や逃げから生まれる、切実な「なりたい」だったような気がするのです。だから、役者になりたいとか、大きな舞台に立ちたいとか、そんな思いは本当はなくて。むしろ「そう思わなきゃいけない」と思っていたのかもしれない。野球部入るからには甲子園目指すって言っておいた方が良いかな、みたいな。そんな感じ。口ではたまに「役者したい」とか言ってたこともあったかもしれないけれど、そうなった自分とか、それに向けて行動する自分とかは、考えてみてもあまりイメージが湧かなかった。動機が動機だったから、余計にね。

 

 

だけどそれが、少しずつ変わっていった。

 

 

本当に根っこからガラっと変わったのは、実はここ2~3年の話かもしれません。でもその2~3年の出来事だけで急に変わったわけではなくて。これまでの積み重ねによる変化が、やっと表に出てきたのがここ2~3年なんだなって感じ。

 

 

私は今、心から、誰かに「なりたい」と思っている。

「have to」ではなく「want to」で。別に、今の私で良い。そこに何の不足も、問題もない。ただただ、誰かになるということが、素直に心から「楽しい」と思える。

 

 

やっと、スタートライン。遅すぎるスタートライン。だけどそこに立てたことが、とっても嬉しい。色んな人との出会い、奇跡が重なって、ここに今立てているんだなって。

 

 

どこ目線とか、何を目指すかとか、目的によって違うと思うんですけど。私は、お芝居って結局「自分」なんだなって、思うんです。あ、経験したことじゃないとできないとか、自己主張するとか、そういう類の話ではなくってですよ?自分が嫌いで他人になりたいと思っても、それって絶対どこかで綻びが出る。だってどこまでいっても、どんなに努力を重ねて技術を学んで場数を踏んでも、自分が自分である、という事実が変わることはない。自分を役で塗り固めても、自分は自分でしかない。そこは変わらない。本質的に誰かになる、なんてことは絶対にあり得ない。それを認めたうえで、誰かに「なってみる」「なろうとする」ことが、芝居の面白さだなって私は思います。

 

 

まあこれが「人に良いものを見せる」とか「芝居で身を立てる」とかになると、だいぶ観点が変わってくるでしょうけどね。「芝居をすること」と「芝居で何かを成し遂げること」では全然意味合いが違うので。「芝居で、嫌いな自分以外の誰かになること」が目的化すると、それは不可能なのでろくなことないよって話でした。

 

 

でも結構いそうな気がするんだよなぁ、そういう人。中学高校の弱小演劇部とかって結構そういう雰囲気の人多そう…。ごめんね、これは偏見かもだけど。思春期に「他人になる行為」って、自分が嫌いな人には魅力的に映りやすいのかなって。まあ自分も含めて、なんだけどね。

 

 

まあそんなこんなで、今が私は一番楽しい。変わるきっかけになった劇団のこと、いろんな出会いのこと、とか、もうちょっと書きたいことあったんだけどね。長くなりそうなので、また今度。

 

 

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「ありのまま」ってなぁに??

綺麗にまとめたいなぁと思いながら、無理すぎるので書きなぐり。

最近、いろんな人と出会います。色んな世界と出会います。

 

そんな中から、思いつきを一つ。

 

 

私は、以下に挙げるこんな方たちと、お知り合いなのです。どれくらい近しい知り合いかというと、人によってだいぶと差があるのですが。

 

・オーストラリアで畑をしている、自然と調和して生きたい野生児系女性

・横浜で畑をしている、無農薬無添加食品生産者

・病院くそくらえな身体動作研究者

・呼吸法命、反ワク反マスクなボイストレーナー

・生まれたままの産声を追求するボイストレーナー

・「本当の好き&やりたい」を追求する、脳科学セッション提供者

etc…

 

 

他にもいろいろあるんだけど、これだけでも、なかなかパンチ効いてるでしょう。でね。

 

 

一見違うようで、もちろんそれぞれ主軸というか、視点や、世界観や、大事にしているものは違って、それが面白いのだけれど。

 

 

起点は全部同じなのかなって思ってるんです、私は。

 

 

今流行りの「ありのまま」ってやつ。

 

 

ただ、「何が」ありのままなのかってことが大事ですよね。

 

 

生物学的なありのまま、なのか、人間的、ホモサピエンス的ありのまま、なのか。とかね。身体的なことか、心理的なことか、とかね。

 

言ってて私もあんまりまとまってないんだけど…。なんとなく面白いな、と思ったので並べてみた。占い的に言うと、集合的無意識がそちらに向かっているのかな、なんて。いや占い的に、じゃないか。心理学的に、か?分からん。

意外と占いは心理学と親和性高いのよ。非科学的なのが好きな方はごめんなさいって感じだけど。タロットは基本的に集合的無意識を拾っていくのですよ。

 

直接知り合いではないけど、お芝居の界隈でもいろいろ見るなぁ。「自然に」「ありのままに」役として「ただそこにいる」というやつ。まあ「芝居」って行為であって手段なんじゃないかなとも思うので、演目によってどうするのか、目的によってどうするのか、みたいな部分はあるのかもしんないけど。

 

そもそも、私たちって普段ありのままじゃないじゃないですか。服着てるし。そういうことじゃないか。まあそれは極論としても、自然に生きている、その「自然」ってなんだろうね。「見られている」という自意識は芝居の敵だなというのは結構共通認識っぽい?けど、自意識を消すという行為は日常に近い「自然」なのかというと絶対違うよね。自意識ゼロの人って、なかなかいない。自意識がない「ありのまま」な人間は「自然」ではないからこそ面白いのかな。いや分からん。

ありのままってどこが起点の「ありのまま」なんだろうね。でも、どんなに手を加えていようとも、そこに現に「ある」時点ですべて「ありのまま」だとも言える。

 

 

…え?私何が言いたいの?

 

 

いや、別に何が言いたいわけでもないのだ。なんていうか、面白いなって思ったので書いてみた。

 

 

いろいろ放置しまくってるけどね、MBTIとかも、書く気はあるんですよ。進んでないだけ。具体の人の分析とか面白そうだなぁ。

ホロスコープ+MBTI+ウェルスプロファイル+体癖に私目線トッピング、的な~?

他人から自分の印象聞くのって単純に楽しくない?私は楽しい。そして言いたい。笑

 

 

そのうち紹介記事書いていこうかな。まあ私が紹介したところで、感はあるけど。思わぬ界隈に繋がることが、ある…かもしれない。知らんけど。書いて欲しい人名乗りを挙げてくれ。ついでにホロスコープ読むよ。やる気が出れば、だけど。

ああ、やりたいことは増えるのに全く進まない…。とりあえず時間泥棒に弱すぎるので打ち勝て自分。何になるとか、意味あるかとか、うまくやるには、とか…。頭にはめちゃくちゃよぎるけど、根本的に目標立てて動くのに向いてない性質なのだ。やりたい時にさっさとやろ。

 

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「ささやかな」「幸せ」って何だろうね。

 

お題「ささやかな幸せ」

そろそろなんか書くか~と思ってお題スロットなるものを開いたら、こんなお題。おお、なかなか書きやすそう。

 

幸せって、人によって違うと思うんだよね。当たり前のことだけれど。私の幸せって何だろう。

 

 

出かける時に天気が良いこと。

茶店で一人ぼーっとしている時。

友達と飲んでキャッキャしてる時。

定時に帰れた時。

美味しいものを食べている時。

なかなか会えない人と会って話ができた時。

歌を聴いたり、歌ったりしている時。

お芝居をしている時。

ダンスをしている時。

可愛い物を見つけた時。

誰かの良いところを見つけた時。

頼りにされた時。

褒められた時。

 

 

これってささかや?大きい?きっと人によって違うよね。

 

 

私は一人で実行できることはささやかな幸せだと思っている。いつでもできるから。

誰かがいないとできないことは、ささやかじゃないなって思う。予定が合わないとできないしね。あと、私の幸せは=ワクワク、なことが多い気がするな。まあそうじゃないこともなくはないけど。「この後どうしよう?」とか「これからどうなっていくんだろう?」っていう、未来に対するワクワク。それを感じる瞬間が、幸せの源な気がするなって、書いていて思った。そう言うと何か大きな期待のように見えるかもしれないけれど、定時で帰って家で何しよう?って考えるのも未来へのワクワクだしね。

 

 

逆に、達成感とか満足感とかで「幸せ」って思うこと、あんまりないかも。もちろんそれはそれで嬉しかったり、あー良いなって思ったり、何かしらポジティブな感情は持つんだけどね。「あ~~~幸せ!!!」とは思わないんだよね。もし思う人いたら、ちょっと話を聞いてみたいな。幸せって、どう定義するんだろうね。難しいね。色んな人の「幸せ」観、聞いてみたいな。

 

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「引き寄せの法則」の正体。

最近、めちゃめちゃハッピーな毎日を送っております。人生って楽しい。

(こないだ友達が、Nはすぐ大きくまとめたがるよねって言ってた。言ってるその子もINFP。)

今日は、楽しい毎日を過ごすちょっとしたヒントになれば良いな、というお話。

 

 

自己啓発好きな方やスピリチュアル系に縁のある方にとってはすっかりお馴染みの「引き寄せの法則」。最近は、そうでなくとも言葉だけは割と浸透してきている気がするのは、私だけでしょうか。色んな人が色んな表現の仕方をされていますが、すっぱりきっぱり端的に言ってしまえばと「信じていれば叶う」「良いものは良いものを引き寄せる」と言ったところ。ディズニーかい。もしくは宗教。ただ、実際それで幸運を「引き寄せている」人がいるのも確か。

 

 

 

摩訶不思議な引き寄せの法則

あなたは信じますか?それとも信じませんか?

 

 

 

身近な、親しみやすいところからいきましょうかね。「笑う角には福来たる」。これは、だいたいの人が頷けるのでは?先人達が残したことわざですしねぇ。笑顔でいれば、笑顔の人が寄ってくる。類は友を呼ぶ、とかもありますね。あとは、付き合うのはだいたい同じレベルの人だ、という言説があったり。良いも悪いも、似たもの、同じもの同士が引き合う。経験則で、何となくそうかな、という気がしませんか?

 

 

私ね、今でも覚えてることがあって。友達と同じパン屋さんの面接に行って、「あなたは自分を、運が良い方だと思いますか?悪い方だと思いますか?」って質問されたんです。私は「悪い」って答えて友達は「良い」って答えたらしいんですけど、案の定友達だけ受かりました笑。それ以外にも理由はあったかもしれないけど、この答えが決定的だったんだと思います。毎朝、焼き立てパンで小さな幸せを届けるパン屋さん。自分が幸せ感じてないと、お客さんに幸せは届けられないだろうな、と、今なら思います。

 

 

では次。この「引き寄せの法則」が、科学的に証明されていたら、面白いと思いませんか?

 

 

脳科学、という分野があります。マーケティングコーチング、カウンセリングなんかでもよく使われるものです。あと心理学とも縁があります。まあ、これもよく聞くかな。どうして「引き寄せ」というやつが起きるのか、これでちゃんと説明できちゃう。

 

 

 

脳には「ホメオスタシス(恒常性)」ってやつがありまして。脳というか、生物全般。同じ状態が心地良い。大きな変化は嫌なんです。例え良い変化であってもね。側から見たら良い変化なのに鬱になる、とかは分かりやすいけど、本人も「良い変化」「嬉しい」と認識してるのに脳は嫌がるんです。厄介でしょ。なんといっても顕在意識2割、潜在意識8割ですから。よく聞くでしょ、潜在意識。とっても大切。だから似たものは引き合うんです。「違うもの」がそばにあるって、それだけで変化だから。

 

 

あとね、脳は見たいものしか見てないんです。これマジ。目には入っていても、全部の情報を平等には取れない。だから、自分が信じているものがよく目に入る→それが自分の「普通の世界」だと思う→恒常性の機能で同じものが寄ってくるって感じでね。自分の信じてるものが、脳の機能で勝手に強化されていくんです。で、その結果として「引き寄せの法則」が発動するという。面白いね〜〜〜〜

 

 

でもね。

 

 

これ、他の人からしてもそうなんですよ。

 

 

 

笑顔でいることが大事とかって言うけど、それって笑顔でいたら笑顔の人が寄ってくるから、自分も心から笑顔になれるって仕組み。でも、いっつも人の悪口ばっかりの人といる時にまで無理して笑顔でいることない。だってその人は勝手に悪口言う人を引き寄せてる。てことは、自分が相手に引き寄せられた「悪口ばっかりの人」になるか、相手が自分に引き寄せられた「いつも笑顔の人」になるか、お互い引き合わずに離れるかの3択しかない。そこで、相手が引き寄せてもないのに笑顔で相手の側に居続けるって、お互いにとって「異質な存在」にしかならない。だから、無理してそこに笑顔で居続ける必要なんかないんです。世の中が不幸だと信じている人にはそういう人しか見えてこないし、そういう人同士でしか分かり合えないし、そこでドンパチやる羽目になってたりする。

 

 

そこに、ずっと居続ける必要、ないよね⁇

楽しくってニコニコな方が良くない?

 

 

私は頭でっかちだけど、同時にお気楽能天気、脳内お花畑な人間でもあるので。なんか必死で我慢したりやりたくないことするの嫌なんだよね。例え将来の自分のためであっても。幸せだなー幸せだなーって毎日自分の小さな幸せを噛み締める人生の方が良い。それしてたらね、勝手に向こうから大きな幸せがやってくるらしいの。本当かな?どうかな?ワクワク。

 

 

 

日本憲法では信仰の自由が保証されています。信仰も、信条も、思索も、思考も。どんなに現実が不幸でも、貧しくても、頭の中だけは常に自由。物の見方、捉え方で、世界って180°変わる。捉え方が変われば、現実すらも動いていく。さあ、あなたはこれから、何を信じますか⁇

 

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